エピソード

  • さあ、祝福を生きよう!(詩篇134篇1節~3節)
    2025/01/05

    序)「さあ」が詩篇 134 篇の鍵

    ・「さあ」=ヘブル語「ヒネー」=「見よ」「ほら」

    ・「都上りの歌」…シオン(エルサレム)への巡礼の旅に際して歌われたとされる詩篇(全部で 14 ある)

    ・神様のみわざの手ごたえを見て招かれる「さあ」

    1)今日における「都上り」

    ・「都上り」は、私たちの人生の中で、教会の営みの中で、神の国の実現(世界を神の価値観・正義と平和へと良い変化を期待して取り組むこと)に向かう短期的なプロジェクトに適用できる。

    ・デジタル・イノベーションと無縁でいられない社会で、私たちはどのような存在であることが期待されているのかといえば、罪から解放されるという霊的変化である。世に迎合しない「変わった存在」=「地の塩」「世の光」であることは世界を変える奉仕。

    ・積み重ねられる「都上り」の先に、神の国の完成=再臨の時がある。

    2)主の家で仕える者への呼びかけ

    ・「神の都」は、旅をしてきた者と旅人を待っていた者とが、一同に会して礼拝する場所である。

    ・「夜ごと」の奉仕は、祭壇の火を保つ大変な務めだが、惰性に陥りやすい。そういう危険のある「しもべたち」に「さあ」と呼びかけられる。夜明けとともに、朝日と共に上って来た礼拝者たちを「見よ」と招く。

    ・神の国において何より重要なことは、存在の喜び(神/自分/隣人)である。「できる/できない」は二の次で「いる/いない」が一番の関心事。

    ・礼拝に「いる」喜びが、「何かができないと認められない世界」から人を救う。

    3)手を上げて、祝福のループに生きる

    ・「手を上げる」所作から学ぶのは、何も持たずに神に求める姿勢。普段握っているものを手放し、素直に、遠慮しないで神を求める。

    ・(祝福を感じて)「さあ、主をほめたたえよ(=祝福せよ)」で始まり「主が…あなたを祝福されるように」で結ばれる。

    ・「祝福する」とは、言葉によって、相手を認め、ほめる、愛を伝えることも含みつつ、相手に仕えるということを、跪いて約束するもの。

    ・私たちの祝福を受け取られた神は、私たちに仕えてくださる!この無限の祝福のループからあふれる善き物で、世界を変えることが願い。

    結)普遍性と地域性が同居した祝福

    ・Glocal という造語:Global(地球規模) で考え、+Local(地域単位)に行動するということ。「天地を造られた主 (Global)」が「シオンから(Local)」祝福される。今や「シオン」は世界中に点在する。

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    47 分
  • 生ける石として築き上げられる(ペテロの手紙第一2章4~6節)
    2025/01/01

    キリスト教たんぽぽ教会(2025年1月1日)礼拝メッセージです。 語り手:稲垣 博史 師 聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 たんぽぽ教会WEBサイト https://tanpopochurch.com

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    29 分
  • キリストの力におおわれる~弱さという誇り(コリント人への手紙第二12章2節~10節)
    2024/12/29

    序)コリント教会の状況

    ・コリント教会は、パウロがおよそ 1 年半をかけて、この町でキリストを宣べ伝え、生まれた教会。コリントの町は「神々」でいっぱいだった。

    ・パウロがコリント教会を離れた後、様々な「教師」が来訪し、偽使徒も入り込み、混乱が起こっていた。この状況に対して書かれた手紙がコリント人への手紙第二である。

    1)パウロが誇る人(2 節~5 節)

    ・「キリストにある人」…キリストと結びついて、一致していた人。

    ・「第三の天」…当時「天」は、三階層で考えられていた。第三の天は、地上から遠い、神のおられるところ=「パラダイス(4 節)」

    ・幻を見たくて見たのではなく、神の意志によって不思議な経験をさせられた人を、パウロは誇るという。

    2)素晴らしさとおろかさと(6 節~8 節)

    ・他人事のように書いていた人物が、実はパウロ自身のことなのか?

    ・この表現は、この啓示の出来事の主体が神の側にあることを際立たせる。

    ・もしこの経験がパウロのものなら、自分の正統性を証明することになったはずだが、そういう風に用いることはしない。

    ・「素晴らしすぎて」という表現からは、相当のものだったはずだが、一切語られない。その代わり肉体に「とげ」が与えられたと語られる。 ・「とげ」が具体的に何かはわからないが、「サタン(神に敵対するものだが、神の許しなしには人間に害を加えることはできない)の使い」であることは理解していた。

    ・パウロはこの「とげ」を去らせてくれるように祈る。「三度」はたった3回というより、神の領域に関連する完全数。

    ・「とげ」はパウロを「打つ=打ちのめす」ものであり、パウロの苦悩が思われる。

    3)弱さという誇り(9 節~10 節)

    ・パウロは、神からの答えを得るのに、かなりの時間があったように思われる。それが 9 節の言葉であった。

    ・「とげ」が取り去られ、肉体の平穏が戻って来ることを希望したパウロに対して、神の恵み、憐れみが十分与えられていると告げられる。

    ・弱さゆえに、神の力は完全に現れるという神の逆転。

    ・弱さを植え付けられた自分を、自分自身が受け止めることができて初めて、わが身に起きているその現実を受け入れることができる。

    結)キリストの力におおわれる

    ・キリストの力が自分の弱さをおおい、自分自身をも強くされるに至る。

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    34 分
  • クリスマスを祝う3 つの理由(ルカの福音書1章67節~75節)
    2024/12/22

    序)クリスマスは、神を賛美する日

    ・ザカリヤが示す 3 つの賛美の理由を味わい、ザカリヤのように祝う者へ

    1)主は顧みてくださる

    ・「顧みる」=気を配る、心配してお見舞いするという意味。

    ・天地万物を創造された神様が、私たち一人一人を顧みてくださるとは驚くべきことである。

    ・アブラハムとサラを「顧みられた(創世記 21 章 1 節)」

    ・世界には恵みが満ち、人生には恵みが与えられる。それにどう応えて生きるのか考えることが、善い人生の一歩。

    2)主は贖いをなす

    ・「贖う」=代価を払って、何かを自由にする(本来あるべき姿に戻す)という意味。例)バッテリーの不具合が起きているスマホは不自由である。「罪」と「悪」は違う。人はみな「罪人」であるが「悪人」とは違う。

    ・神を忘れて生きる時「バッテリー」が故障し、不具合を起こす。

    ・イエス・キリストの全存在をもって、私たちのバッテリーを交換するための代価が支払われた。

    ・神との関係が正しくされるとき「私の神」と呼ぶ関係が回復される。ただ聖書は、個人的な神よりも、共同体の神として、神を呼ぶことが多い。それは人間が共同体の中にあって初めて、あるべき姿を取り戻すことができることを示す。

    3)主は救いの角を立てる

    ・「角」とは、動物にとって「戦う力」である。「救いの角」とは「助け出す力」を意味する。

    ・イスラエルにとって身近な牛、羊、山羊の角は生え変わらない。折れたら終わりである。そこから新しい角が立てられるのは奇跡である。

    ・ダビデは歴戦の強者であり、そこに立てられる角の強さを強調する。

    ・「敵」とは「アブラハムに与えられた契約(=すべての人を祝福する務め)」に「恐れなく(大胆に)」専念して、主に仕えることを阻むあらゆるものが敵である。

    ・「救いの角」=イエス様が「恐れ」を取り除ける戦いをしてくださる。私たちはより頼むことが求められ、必死になって戦うことではない。

    結)ザカリヤの口からあふれる賛美

    ・神の働き(顧み、贖い、救いの角を立てる)のは、人間を通して行われることが多い。喜びを知り、喜びを生きる。ほめたたえ、祝福する。

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    45 分
  • 救い主の系図の五人の女性(マタイの福音書1章1節~17節)
    2024/12/15

    序)マタイがイエス・キリストの系図から書き始めている意味

    ・アブラハムと交わした救いの契約が、歴史の流れの中で、人間的には潰えているかのように見えるが、むしろ完成へと向かっていること。

    ・ダビデ王の継承として、新しい王の誕生を伝え、神の王国の再建、再統一をもたらすこと。

    ・バビロン捕囚という、イスラエルの国の亡国後に救い主が誕生することが強調されている。

    1)救い主の誕生の系図は、人の罪を乗り越えて行われている

    ①最初は地元のカナン人のタマル(創世記 38:2)。タマルの夫エルは「主の目に悪しき者であったので、主は彼を殺された」(創 38:6-7)。「主の目に悪しきこと」とは、シャローム(平和)とは反対の偶像礼拝を含む神様へ背信と不従順を含む事柄(申 31:29、Ⅱ列 21:9 イザヤ 59:7 等)。

    ②カナン人ラハブ。エリコの遊女だった(ヨシュア 2:1)。アブラハム子孫ではなかったが、神への信仰を持って斥候に親切な対応をした(ヘブ11:31,ヤコブ 2:25)。

    ③ルツは異教徒の国モアブ(ロトの姉娘との間の子ども:創19:30-38)の女。義父と自分の夫に先立たれ、姑のナオミと一緒にベツレヘムに帰る決心をし、神様に対する信仰を告白した。ルツはボアズの妻となり、ダビデのお爺さんのオベデを生む。

    ④4人目はヘテ人ウリヤの妻バテシェバ(Ⅱサム 11:14-17)。ダビデのこの罪は預言者ナタンによって示され、ダビデは心砕かれ、悔い改める。このバテシェバとの間にソロモンが生まれる(Ⅱサム 12:24)。

    ・アブラハムから 14 代の系図は、タマルとラハブ、ルツを間に挟み、ダビデからバビロン捕囚までの 14 代はバテシェバから生まれたソロモンから異教の神々を取り込む偶像礼拝の罪が続けられ、バビロン捕囚からキリストの誕生までの 14 代では罪による神の怒りの救いを待ち望む預言が語られた。

    ・救い主が誕生に際し、女性が用いられた。その救い主は十字架を忍び、苦難を受け、神の怒りと裁きがその身に注がれ、その結果、キリストを信じる者には罪の赦しの救いを受ける。

    2)救いとは何か

    ・絶望からの救い。不従順による失敗、恥をかく様な躓き、心身の落ち込み、試みの中で「おまえの神は何処にいるのか」と問われる苦しみからの救い。

    ・水野源三さんの「主よ。なぜですか」と言う歌がある。「主よ。なぜですか?父につづいて母までも。み国へ召されたのですか?涙があふれて、主よ。主よと ただ叫ぶだけで、次の言葉がでてきません。主よ。あな たも私と一緒に 泣いてくださるのですか。」

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    42 分
  • 主の来臨に胸躍らせて(ルカの福音書1章46節~55節)
    2024/12/08

    序)「私は、神様に用いられて、世界を変える存在になる」

    ・「神様に用いられない」と言うことはへりくだりではなく、高ぶりである。神様以上の存在になって、自分を評価しているからである。

    ・「神様なしに、世界を変える存在」だと豪語するのも高ぶりであるが。

    1)世界は変えられる必要がある

    ・「現状維持」に甘んじてしまうのは、やはり、神様の力を小さく見積もっているのではないか。

    ・「現状維持」で良いというなら、今の状態を肯定し、悪に加担することになりかねない。もちろん「世界をすっかり変える」ことはできない。それはキリストの再臨のみわざである。

    ・神の民とされた者には、自分自身が変えられ、そのインパクトが広がっていくことが期待されている。

    2)マリアの心にともった喜びの2つのモード

    ・マリアはキリストを産み育てることを通して世界を変える存在になった。

    ・「私のたましいは主をあがめ(≒大きくし:現在進行形)」「私の霊は私の救い主である神をたたえます(言い切りの形)

    ・賛美・喜びの火には、じんわりと広がる火(静かな継続)、ぱっと明るくなる火(言い切り、ほとばしる賛美)の2つがある。

    ・神様の偉大さを知るほどに、喜びの底が上がっていく。

    ・喜びの源は、神が「目を留め」用いて下さるという事実にあった。

    ・神に用いられる唯一の条件は、神を恐れへりくだること。

    ・マリアは自分をサンプルにして「幸いな人」へとすべての人を招く。

    3)主が来られるなら世界は変わる

    ・マリアの賛歌は、即興であるが、旧約聖書の賛美が総動員され、自分の人生と結び合わされ歌い直されている。

    ・「主は~た」と過去形で訳されているが、言い切りの形「~す」と理解する方がよい。(時間に制約されていない)

    ・地位もなく、名もなく、小さくされた者に目を留め、そこに御力を現されることで、世界を変えるのが聖書に現わされた主なる神の姿である。

    ・社会的に低い、小さい、弱いと見なされている人の方が、神の選びの憐れみに、より多く、より深く驚くことができる有利な立場にいる。

    ・「飢えた者」とは、貧しさに連帯し、分かち合いたいと願う者のこと。「富む者」は自分で独り占めしたい者のこと。持っている物の多寡は関係ない。「イスラエルを助ける」のも、助ける者になるため。

    結)世界は変わっていないように見えても

    ・神の憐れみは、消えていない。神の国は変えられた私達から始まる。

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    40 分
  • 御言葉の成就は想像を超えて(ルカの福音書1章39節~45節)
    2024/12/01

    序)主の御言葉を待ち望む

    ・キリスト信仰は聖書を神のことばと信じるところに生まれ、御言葉に心浸し、心洗われて生きるもの。

    ・聖書自身の証言にアーメンと同意することと、御言葉を信じて歩む経験に裏付けられたアーメンの両方が重要。

    1)私中心の「信仰生活」から、神中心の「献げられた人生」へ

    ・言葉そのものに励まされることもあるが、神のことばが織りなす物語の世界に生きることが、人生を変える。

    ・聖書は「聖なる書物」というタイトルからは想像できないほど、血なまぐさくドロドロした人間の物語が描かれている。しかし、その現実のただなかに、神が介入されることを証しするのが、聖書である。

    ・聖書で展開される神の物語が、地続きで私たちのどうしようもない現実に、繋がっている。私たちの人生も神の物語に巻き込んでくださる。

    2)マリア~大きくて小さな一歩を踏み出した人~

    ・彼女はおそらく戦争孤児で、似た境遇の人々が集まるナザレ村に生きていた。当時の社会で特権階級にあたる「祭司」ザカリヤ夫妻を親戚にもっていた。

    ・ナザレからユダの町までは少なくとも一晩は越さないとならない。女性一人では危険な旅である。

    ・マリアは数日前に受胎告知を受け、戸惑いが大きい中、ザカリヤ夫婦に会うことを決意した。

    3)エリサベツ~神の憐れみをお腹に宿した人~

    ・当時の社会で、不妊の女性は死んだも同然の扱い。子が与えられるよう長らく祈って来たがもうあきらめていたところに、神の介入があった。

    ・御言葉の成就が、手ごたえとして感じられるまでに成長していた。

    ・マリアの挨拶を聞いて、エリサベツは瞬時に知性と感情が爆発的に結びつき、聖霊に満たされ歌い出す。マリアの憂いを理解し、それを吹き飛ばす賛美がほとばしる。

    ・「祝福された方」とは完了形。揺らがない祝福:神の計画のど真ん中に置かれ、苦しみ悩みが無意味に終わることのない祝福。この祝福は実に、今、キリスト信仰者みなが共有しているもの!

    ・ヘブル語「アルマー」は処女に限定されない。処女懐胎は人々の期待していたことではなく、それを上回る神の奇しい計画であった。

    結)御言葉の成就は想像を超えて

    ・私たちは互いにマリアとエリサベツの関係を育んでいこう。

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    44 分
  • 握るべきもの、手放すもの(ヨハネの黙示録2章12節~17節)
    2024/11/24

    序)『鋭い両刃の剣を持つ方』というイメージ表現

    ・ヨシュア記 5 章 13 節の「抜き身の剣を手に持った主の軍の将」

    ・民数記 22 章 23 節にも「主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっている」→重要で、緊急な警告を与えるための使者のイメージ

    ・「剣(ロムファイア)」は最強の武器の一つとされ、負けることのない強さの象徴であり、これが主イエスの言葉に適用されている。

    ・イザヤ 49 章 2 節「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。」

    1)「サタン」が住んでいるのはどこなのか?

    ・「あなたが住んでいるところ」という表現で用いられる「住む(カトイケオー)」は黙示録の中でネガティブな「心の拠り所」を意味する。ペルガモンの教会は、サタンの王座に心の拠り所を置いているとの告発!

    ・「わたしの確かな証人アンティパス」を目の前で殺されている。なぜ、アンティパスだけなのか?という疑問。称賛のように聞こえる文章は、「アンティパスを見殺しにしても、信仰をもっていられるあなたがたはすごい」という皮肉ではないか。

    2)「少しばかり」の問題なのか?

    ・「少しばかり」と和らげられているが、実際は「ニコライ派」の問題であり「少しばかり」とは言い難い。ここも皮肉。

    ・民数記 25 章に記された「バアル・ペオル事件」が引用されている。バラクは預言者バラムを雇い入れてイスラエルを呪う計画を立てるが失敗する。その後、バラムはイスラエルを外から攻撃するのではなく、内側から崩壊させる(偶像崇拝に引き込む)案をバラクに進言する。

    ・ペルガモンの町は、ゼウスの大祭壇があり、いくつもの神殿があり、ローマ皇帝を神格化した像や神殿があったから、ペルガモンで生きていくには「少しばかり」の妥協は必要という考えがあったのではないか。

    3)偶像崇拝が戒められる理由

    ・偶像崇拝は、人間性を貶め、不自由(虜)にし、思考を停止させるから。

    ・イエスの御名以外を絶対化して握りしめると、何でも偶像になる。

    ・「隠されているマナ」は「隠されている剣(イザヤ 49:2)」と入れ替えられた表現。マナも剣も御言葉の象徴だが、役割が違う。剣ではなくマナをイエス様は与えたい。

    ・マナは「白い小石」に似ていた。神々の名が記された白い小石がお守りとして流通していた。これを皮肉的に採用して、イエスの御名に信頼する者が「誰にも支配されない新しい自分」という贈り物を得ると描く。

    結)「悔い改めなさい」と言われるイエス様のまなざしを忘れずに

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    49 分