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サマリー
あらすじ・解説
神様の大作戦(後編) 助産師 目黒 和加子 臍帯剪刀を手にしたこの日は、奇しくもおさづけの理を戴いたあの日と同じ7月17日だったのです。 「これって偶然? 教祖に助産師になってみせるって言うたけど、もしかしてなるように仕向けられてるの?」 神様が練った作戦に気づき始めたのです。 私が目指したのは、新潟大学医療短大助産専攻科です。入試の2ヵ月前、腰の激痛で椅子に座れなくなり、近所の整形外科を受診、腰椎椎間板ヘルニアと診断されました。 新潟大学を受験することを、院長の南先生に伝えると、「僕は30歳の時に造船会社をリストラされて、一念発起して医学部を受験して36歳で医者になったんや。34歳で受験か。新潟に行けるよう全力で応援するで」と、嬉しいお言葉。 痛みを抑えるため、飲み薬だけでなく神経ブロック注射も受けましたが、効果は今ひとつ。これでは飛行機に乗れません。すると南先生は、私が搭乗予定の日本エアシステムに、「人生をかけた34歳での受験なんです。3人席の肘掛けを上げて、横にしてフライトしてもらえないでしょうか」と、手紙を書いてくださったのです。 日本エアシステムからの返事は、「離陸と着陸の時は座ってもらい、それ以外は希望通りになるよう配慮します」とのこと。なんとまあ、こんなことがあるのでしょうか。私はこうして、ひどい腰痛を抱えたまま新潟大学を受験することができたのです。 入試が終わり、帰りの飛行機での出来事。満席のため、行きと違いどうしても座らなければならず、痛み止めの座薬を入れて飛行機に乗り込みました。客室乗務員さんがひざ掛けを丸めて腰に当ててくれるのですが、効果がなく冷や汗が出てきます。 すると、隣りに座っていたおじさんが、「どうしたの? 腰が痛いの?」と心配そうに声を掛けてきました。「はい、腰椎にヘルニアがありまして…」と答えると、「ワシも30年前からヘルニア持ちなんや。おっちゃんに任しとき!」と言って、客室乗務員さんにひざ掛けを何枚か持って来させ、それを私の背中と椅子の間にぎゅうぎゅうに詰め込み、がっちり固定。すると、痛みが引いたのです。 驚いた顔の私に、おじさんは「腰のヘルニアは治ることはないけど、上手に付き合えるで。大丈夫やで」と、笑顔で励ましてくれました。 石田病院に勤めて数カ月後、看護師のなっちゃんから電話がありました。なっちゃんは看護師として勤務しながら、助産師学校の合格を目指して予備校に通っていたのですが、突然、「私、結婚するから助産師目指すのやめるわ」と言うのです。 「せやから、和加ちゃんに予備校の教材全部あげるわ。高かってんで、がんばりや!」なんと、教材をタダで手に入れてしまいました。 「よし、これで学科試験は何とかなる。問題は小論文や」 今でこそ、こうして原稿を執筆していますが、その当時は小学生の作文のような文章しか書けなかったのです。早速、予備校の通信教育小論文コースで指導を受けることにしました。 予備校の先生から課題をもらい、小論文を書いて提出するのですが、毎回戻ってくる原稿用紙は、赤ペンの修正だらけ。 9月に送られてきた課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」。9月半ばに小論文を提出し、添削指導が戻ってきたのは10月初旬でした。 封筒を開けてビックリ! 新しい原稿用紙に万年筆で書かれた模範解答が入っていたのです。おそらく、修正箇所が多すぎて真っ赤っかになったので、一から書いてくださったのでしょう。 「すごい! さすが赤ペン先生、めちゃめちゃ上手いわ。なんて素晴らしいお手本なんや」 次の日からその模範解答をかばんに入れ、通勤電車の中で黙読を続け、1カ月後には暗記できるようになりました。この模範解答の暗記が、入試で効いてくるのです。 推薦入試の受験日は11月末。定員は20名ですが、そのうち推薦入試の枠は、たったの5名。私の受験番号は2番なので、何人受験するのか検討がつきません。 いよいよ受験当日。新潟大学の試験会場に行ってびっくり! なんと80名を超える受験生がいるではありませんか。競争倍率16倍の超狭き...