-
サマリー
あらすじ・解説
神様の大作戦(前編) 助産師 目黒 和加子 私が助産師になったのは35歳の時です。看護大学を卒業すれば22歳で助産師になれるので、かなり遠回りをしました。今回は助産師になるまでの山あり谷あり、崖っぷちありの道中をご紹介します。 高校を卒業後、医療系の専門学校を卒業し、医療秘書として内科病院に勤務していました。23歳で結婚しましたが上手くいかず、仕事を辞めて天理教の教えを学ぶ修養科を志願し、三カ月おぢばで過ごしたのちに離婚。実家に戻っていました。 当時、歯科医院で勤務していましたが収入は少なく、将来を考え看護師免許を取ろうと28歳で一念発起し、まずは准看護師学校へ入学。病院で働きながら学校へ通う勤労学生を2年経験し、准看護師になりました。さらに正看護師の学校へ進学。2年後、32歳で晴れて看護師になったのですが、待っていたのはいばらの道でした。 大阪市内の総合病院に就職し、内科病棟の配属となりました。新人には指導者がついて、マンツーマンで教育・指導を受けるのですが、私の指導者はとても厳しく、課題がどっさり出て休みの日も宿題に追われる日々。 提出しても、「抜けているところがあります。やり直してください」と言われ、「どこが抜けているのですか?」と聞いても、「自分で考えてください」と冷たい返事。再提出、再々提出しても「やり直し!」と突き返されます。何度見直してもどこが抜けているか分からず、やり直しをせずに提出すると、その指導者はなんと「これでOKです」と言ったのです。 このことで緊張の糸がプツンと切れ、胃潰瘍となり近所の病院に入院。就職して2か月で休職となってしまいました。 入院中、「私の指導が行き過ぎていたと反省しています。やり方を変えますので戻ってきてください」と指導者から電話があり、職場復帰を考えていた矢先、風邪をひきました。 その風邪をこじらせ近所の内田耳鼻科を受診し、急性副鼻腔炎と診断されました。薬を飲んでも頬の痛み、黄緑色のドロドロの鼻水、頭痛、身体のだるさは良くならず、大学病院耳鼻科のK先生を紹介されました。K先生は頬の上顎洞に溜まっていた膿を出そうと、鼻に圧をかけて副鼻腔内を洗浄するヤミックという新しい治療をしたのですが、膿は出ませんでした。 後で分かったことですが、このヤミックの治療が失敗し、上顎洞の膿は排出されないどころか、鼻の一番奥、目の後ろにある「蝶形骨洞」へと押し上げられたのです。 治療後、頭痛は一層ひどくなり、目も見えにくくなったので再び大学病院を受診。しかしK先生から、「もう上顎洞に膿はありません。念のため脳神経外科を受診してみますか」と言われ、そちらへ回されました。 しかし、脳神経外科で問題なしと言われると、K先生は「症状は精神的なところから来ているのかもしれません」と言い、今度は精神科に紹介状を書き始めたのです。 ちょうどその時、CTとMRIのキャンセルが出たと連絡があり、急きょ検査を受けました。 検査後、フィルムを見たK先生の表情がこわばり、若いドクターに「すぐに蝶形骨洞開放術が必要だ!手術室の空きがあるか確認しろ!」と声を荒げ、慌てています。 「蝶形骨洞の粘膜が腫れて、腫瘍らしきものも見えます。何が原因でそうなっているかは分かりませんが、早く手術しないと蝶形骨洞内を走る視神経がやられて、失明する可能性があります」と言うのです。 しかし、その日は手術室の空きがなく、「今日はステロイドと抗生剤の点滴をして帰ってもらい、明日の朝一番で手術をします」との説明を受けました。 診療が終わり静まり返った耳鼻科外来。診察室の一番奥で、カーテンで仕切られたベッドに横になり、点滴を受けていると、私がいることに気づかない数人の医師がカンファレンスを始めました。 「このCT見てみ。こんなぐちゃぐちゃな蝶形骨洞、今まで見たことないわ」 「どうせ悪性ちゃう?」 「明日の朝一番でオペやって。どうせ開けてもたすからへんで」 「N病院の看護師やで。結構べっぴんや。32歳か、かわいそうになあ」 カーテン越しに聞こえてきたのは私のことでした。体...