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サマリー
あらすじ・解説
彼女に足らなかったもの 大阪府在住 山本 達則 家庭内での感情のぶつかり合いは、古今東西、当たり前にあることです。人間同士の関係が近ければ近いほど、尾を引くことも多いと思います。他人であれば、付き合いをやめるとか、距離を置くとか、日常に支障がない程度に対処できるかも知れませんが、関係が近ければそういう訳にはいきません。時には、悲しい思いや、怒り、悔しさなどで感情のコントロールが難しくなることもあるのではないでしょうか。 長年の母親による愛情を束縛と感じ、家出をしたAさんという女性がいました。音信不通の数年が過ぎた頃、Aさんは母親へ「SOS」の電話をかけました。「お母さん、たすけて」。母親は、「とにかく、どうにかして帰ってきなさい」と伝えました。 Aさんは良からぬ友達にだまされて、大きな借金を抱えてしまい、借金取りに追われていました。相談を受けた私は、その問題が解決するまで、Aさんに教会に住み込んでもらうことにしました。その間、母親と私はAさんの問題解決に奔走しました。母親は娘のために寝る間も惜しんで、あちらこちらと駆けずり回っていました。 一方のAさんは、教会で生活する中で、親が子供にかける「愛情」とはどんなものなのかを客観的に見る機会を得ることになりました。 当時、教会には私の子供が高校生を筆頭に四人と、里子が数人いました。私の妻が娘に「嫌ごと」を言う場面も当然ありました。娘は決まって不機嫌な態度をとります。また、私が父親として息子に「小言」を言う場面もありました。息子も当然、不機嫌な顔をします。 「早く帰ってきなさい」「宿題しなさい」「早く寝なさい」「冷たいものばかり飲んでいたらダメ!」「好き嫌いしないで何でも食べなさい!」 Aさん自身も母親に言われて経験したであろう光景が、そこにありました。 そんな彼女が一番に思ったのは、「わざわざ子供が嫌がることを言わなければいいのに」ということでした。しかし、そのような場面を繰り返し見ているうちに、Aさんはあることに気づきました。 いつもは親の小言に不機嫌な態度をとる子供たちが、「分かった」「ごめん」と、素直に反省することがあります。その時の私と妻の表情が、ものすごく嬉しそうに見えたというのです。 すると、その嬉しそうな親の姿を見て、子供たちの態度も少しずつ変わってきたと。今度は反対に、子供たちが親に褒められようと、進んでお手伝いをしたり、言われなくても宿題をしたり、進んで嫌いなものを食べたりする場面が多くなったと言います。 そんな様子に、私たち親の小言も減っていったと彼女は感じたようです。私自身、それほど意識していたわけではないのですが、それが私たち親子の様子を客観的に見ることが出来たAさんの実感でした。 そしてAさんは、自分には、親を喜ばせてあげようという気持ちがなかったことに気づいたのです。彼女も幼い頃は、親に褒めてもらいたいという思いで、子供らしい素直な行動をとったこともあるでしょう。しかし、自我に目覚めてからは、親に反抗することしか出来ずに、その結果、家を出るという選択をしてしまったのです。 彼女は教会に来てしばらくして、私に尋ねてきました。 「私は何が間違っていましたか?」 私は、彼女にこう答えました。 「間違っていたんじゃなくて、足らなかっただけだと思うよ」と。 「親に対して、年齢なりに不満は募ってくるものだよ。でも、親の立場になって考えたらどうだろう? わざわざ子供に嫌われたり、嫌がられたりしながらも、小言を言うのは何のため? それは間違いなく子供のためだよね。それを想像する余裕が、少し足らなかったんじゃないかな。 それともう一つ、ここには里子がいるでしょ。この子たちは、親と一緒に生活したくても出来ない子たちなんだ。嫌ごとや小言を言って、心配してくれる親が側にいることも、当たり前ではないよ。親がいてくれることを、もっと喜ばないとね」 私は精いっぱい、彼女に気持ちを伝えました。彼女はそれから間もなく、初めて母親の誕生日にケーキを買って実家に戻りました。 ...