• 徳積みはコッソリと
    2025/01/10
    徳積みはコッソリと                    岡山県在住  山﨑 石根 現在、天理市で寮生活をしている高校一年生の二男は、どういう訳か幼い頃から、色々なものがよく当たる子でした。兄と一緒にガチャガチャをしても、弟の彼だけ欲しいおもちゃが当たったり、たまにしか買わないアニメのメダルやカードでさえ、見事にレアな物を引き当てたりするので、長男が「何で弟だけ…」となって悔しがる場面を何度も見てきました。 その度に、二男は周りの人から「徳があるなぁ」と言われてきたのですが、実際に昔から黙々とお手伝いなどが出来る子であったのは確かでした。「何で弟だけ…」と悔しがる長男に対して、「あんたもしっかり徳を積んだら当たるようになるわ」と、しばしば妻が言っていたのを覚えています。 昨年の三月、岡山市の大教会で子どもたちを対象にした大きな行事が開かれました。実に、子どもが100人以上集まるビッグイベントです。この行事への参加が最後になる年齢の二男は、ラストのビンゴ大会で、何と目玉景品の一つであり、本人も欲しがっていたスマホのワイヤレスイヤホンをゲットしたのです。 飛び上がって喜ぶ二男に、妻が「これで、積んだ徳を全部使い果たしたなぁ」とひと言。それに対して、「そうじゃな。また徳を積まなあかんなぁ」と二男が答えたのを聞いて、私は何だか嬉しくなったのでした。 「徳を積む」とは、昔から日本で大切にされてきた考え方ですが、天理教教祖・中山みき様は、人の見ていない〝陰で徳を積む〟ことの大切さをお説き下さいました。  たとえば、教祖は飯降伊蔵(いぶり・いぞう)さんという方に、「伊蔵はん、この道はなあ、陰徳を積みなされや」と教えられました。そこで、大工だった伊蔵さんは、夜な夜な、人知れず壊れた橋を繕ったり、悪い道を直したりして、教えを実践されました。陰で良い行いをしても、当然評価されませんし、見返りもありません。しかし、それこそが神様にお受け取り頂ける行いなのだと、教祖はお教え下さったのです。 さて、私は毎月、神様の教えをチラシにして近所に配ったり、教会の壁に掲示したりしているのですが、チラシにこの「陰徳を積む」というお話を書いた、昨年10月のある日のことでした。 その日は、年齢や国籍を問わず、地域の人たちが集まって食事を楽しむ「みんなの食堂」という行事の日で、私がスタッフとして会場の準備をしている時、同じスタッフをしている主任児童委員の有元(ありもと)さんが、次のような話を聞かせて下さいました。 「山﨑さん、私は毎日、犬の散歩をしてるんですが、他の犬のフンが落ちているのを見たら、これまでは見て見ぬふりをしていたんです。次の日にそのフンが潰れているのを見たりしたら、ああ、昨日拾えば良かったと後悔するんですが、自分の犬以外のフンは、やっぱり汚いなぁと思っていたんです。  でも、今回のチラシの〝陰徳を積む〟という話を読んで、そうか、見返りを求めずに頑張ったら、徳を積むことになるんだと知って、最近はいっつも拾うようにしているんです。だけど、本当はこのことも言っちゃダメなんでしょう?」 思いがけない有元さんの良い行いの報告に、自然と私以外のスタッフからも拍手が起き、みんな「スゴ~イ」「ステキ~」と笑顔になりました。私は 「そうそう、良い行いも自分から言ってしまうと、積んだ徳が勘定済みになってしまうって言われていますけど、でも、こうしてみんなを嬉しい気持ちにさせたんだから、素晴らしいじゃないですか」とお伝えしました。 教祖の教えが少しでも地域の方に伝わり、少しでも陽気ぐらしの世の中につながればとの思いから、チラシを外に掲示していましたので、私の嬉しさも一入でした。 その上で、有元さんから主任児童委員らしい提案もありました。 「私は今、小学校の学校運営協議会の委員をしてるんですが、学校の取り組みの一つに〝友達のいいところ見つけ〟のようなものがあるんです。友達のいい所を発見して褒め合ったり、報告したりするんですが、ふと、いい行いをしても、...
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  • おさづけは世界共通 その2
    2025/01/03
    おさづけは世界共通 その2 タイ在住  野口 信也 私は22歳でタイへ2年間留学した時に、「もし、病気の方がおられるのを見たり聞いたりしたら、すぐにおさづけを取り次ぐ」ということを心に決め、帰国後も、そして一年後にタイの大学へ再留学する時にもその決心を続けていました。 その時、多くの病気の方と出会いましたが、特に症状の重い方にはできる限り毎日取り次ぎをさせて頂くために、渋滞のひどいバンコクの街をバイクタクシーで移動したり、なかなか回復のご守護を頂けず悶々とする日も多かったことなどが思い出されます。 その頃、大学二回生の時だったと思います。講義の最中、ある女性の教授が、「いま私の父親が入院中で、とても危険な状態です。試験前の大切な時期に申し訳ないのですが、来週はおそらく葬儀で休講になると思います」と話しました。 私は講義の後、先生の所へ行き、「私は天理教という宗教を信仰しています。もし良ければ、お父さんが良くなるようにお祈りをさせて頂きたいのですが」と話しました。 すると、「そんな聞いたこともない宗教に祈られて、父親が地獄に落ちたらどうしてくれるんですか」と、きつく断られました。先生が教え子にそんなことを言うのかと驚きましたが、試験前でもあり、断られて少しホッとしたのも事実です。そこで「では、家でお祈りしたいので、お父さんのお名前と住所、生年月日を教えてください」と言うと、それについては問題なく教えてくれました。 翌週、教授は休まず講義にやって来ました。講義の後、「お父さんはどんな状態ですか?」と恐る恐る尋ねると、意外な返事が返ってきました。 「実は今も意識はなく、苦しそうな顔をして、死ぬに死ねない状態です。それであなたのことを母に話したら、ぜひ来てもらいたいと言います。一度断っておいて申し訳ないのですが、来てもらえないでしょうか」。 おたすけは、話を聞いたらすぐに取り掛かることが大事だと聞かせて頂くので、その日のうちに行くとお伝えし、入院先の警察病院で待ち合わせることになりました。 案内されて病室へ行くと、教授の母親が丁寧にあいさつをして下さり、家族の紹介を受けました。聞くと、会社の社長に弁護士、医師といった社会的地位のある方ばかりでした。少し気後れしましたが、まずは天理教のお話を聞いて頂かなければなりません。 さっそく親神様・教祖についてお話を始めたところ、日本人の私がタイ語を理解できないと思ったのか、「こんな宗教は聞いたこともない。もし本当にたすかるなら、もっと有名なはずだ」と、タイ語でひそひそ話している声が聞こえてきました。 私はそれを聞いて、沸々と熱い感情が込み上げてきて、「お父さんは、いま意識を失っています。この苦しそうな顔は、家族であるあなた方に対する親神様からのメッセージです。天理教では、三日三晩のお願いで必ず結果が出ます。しっかりとお父さんのことを看てあげて下さい」と申し上げました。 そして、一度目のおさづけの取り次ぎにかかりました。病室が静まり返る中、取り次ぎを終え柏手を打つと、父親が付けていた酸素吸入器が「ガタガタ」と音を立てて止まりました。家族の方が「一回のお祈りで死ぬのか」と言い、病室は騒然となりました。教授が急いで看護師を呼ぶと、「自分で呼吸を始めていますから大丈夫です」とのことで、私は少し安心して、「では、また明日来ます」と言ってその場を後にしました。 翌日、病院に行くと、昨日までの苦しそうな顔が嘘のように、穏やかな顔で寝ておられます。意識はないものの、おさづけの最中に、少し薄目を開けてキョロキョロしています。「いい顔になりましたね」と言うと、教授が「はい、あなたのおかげです」とお礼を言って下さいました。 家族の中には、「いや、最初からこんな感じだよ」と、おさづけの効能を信じない方もおられましたが、その日は、父親に二回おさづけを取り次ぎ、会社の社長をしている教授のお兄さんも首と手首、足首が痛いとのことで、おさづけを取り次がせて頂きました。 そうして迎えた三日目、私が...
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  • 徳を育む
    2024/12/27
    徳を育む                    兵庫県在住  旭 和世 小さい頃、買い物について行って、「お母さんこれ欲しい!」とおねだりすると、母は決まって「そう、これ欲しいの。だけどね、徳まけしちゃうから、また今度にしようね」と言いました。 「ダメよ」とか「我慢しなさい」ではなく、いつも「徳まけ」という言葉が出てきました。幼い私には、「徳まけ」という言葉がどんな意味なのか分かりませんでしたが、「何でも好き放題にすることは良くないんだな、わがまま言ったらダメなんだな」と、何となく感じていました。 なぜそのように母が言っていたのかを理解できたのは、大人になってからのことです。ある時母から、私たちがまだ小さい頃、「子供たちには一切おもちゃを買い与えません」と、神様に心定めをしていたことを聞かされました。 「小さい時に徳を使い果たすと、将来運命が行き詰ってしまう。分からないうちは、親が子供の徳積みをさせてもらわないと!」母はそんな思いで、私たちを育ててくれたそうです。 当時、お友達のいえに行くと、かわいい着せ替え人形やぬいぐるみ、流行りのキャラクターグッズなど、うちにはない色んなおもちゃがあって、とても魅力的でした。それでも、「どうして私は買ってもらえないの?みんなはいいな」などと思ったり、卑屈になったりしたことはありませんでした。母の信念を、子供なりに感じ取っていたからだと思うのです。 また母は、信者さんが普段食べることの出来ない珍しい物を持ってきて下さった時も、神様にお供えし、そのお下がりを必ずいちばんに祖父母に食べてもらっていました。そうして、両親が祖父母をとても大切にしている姿を見て育ったので、おいしい物が目の前をスルーしていっても、うらやましがることもなく、いつも穏やかな気持ちでいることができました。 母は後に、親なら、美味しそうな物を子供たちに食べさせてあげたいと当然思うけれど、それを子供たちの今だけの喜びに終わらせるのではなく、幸せの種にしてあげられたらと思っていたのだと、聞かせてくれました。 天理教教祖・中山みき様のお言葉に、 「お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで」(教祖伝逸話篇78「長者屋敷」) とあります。 これは、当時のお屋敷に住んでいる人へ向けたお言葉ですが、今を生きる私にとっては、「欲の心、物への執着をなくせば、人は何にもとらわれることなく、何不自由ない幸せに満ちあふれた暮らしができる」という意味に受け取ることができます。それは、小さい頃から、執着の心やとらわれの心を手放すことの大切さを、両親から教えられてきたおかげだと思います。 自分自身の子育てでは、親がしてきてくれたように、我が子に徳を育むことの大切さを伝えられているのか、試行錯誤の日々ですが、この春こんな出来事がありました。 我が家は昨年、長男が天理高校に進学し、今年は長女が天理高校に入学しました。その長女の入学の準備をしていた時でした。 制服や体操服はお下がりを頂けることに決まっていたのですが、カバンだけがなく、買わないといけない状態でした。そんな折、長男から電話があり、「妹のカバンは買わなくていい」と言うのです。「どうして?」と聞くと、驚きの答えが返ってきました。 「去年ボクが高校入った時、お下がりのカバンは嫌だって言って、新しいの買ってもらったやん?」 「ああ、確かにそうやったね」 「だけど、そのあと後悔してな…。物は大切にせなあかんなあと思って、新品使わずに、お下がりのを使ってるねん。だから、新品のカバン、そのまま使わせてあげて!」 「え?そうなん?でも、お下がりのカバン結構傷んでたんちゃう?」 「いいねん、破れるまで使うわ」 まさか、そんなこととは知らず、驚くとともに、とても嬉しく思いました。きっと、学校で、お下がりの...
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  • 神様はある?
    2024/12/20
    神様はある? 岐阜県在住  伊藤 教江 「神様なんて絶対にない!お母さんなんて大嫌い!」 当時、高校生だったA子さんは、目に見えない神様は勿論、自分を育ててくれた母親の真心さえも信じられず、問題を起こす度に、母親を怒鳴りつけました。 その後も、A子さんは幾つもの問題を重ね、暴力団事務所に出入りするようになり、ついには家を飛び出してしまいました。その後、A子さんは暴力団の組長と一緒に暮らし始めていたことがわかりました。 それを知ったご両親はどれほど心配をしたことでしょう。早く帰って来て欲しいと連絡をしても、A子さんは会うことを拒否し続けました。そして月日は流れ、いつの間にかA子さんには二人の子供が授かっていました。 いよいよ困り果てたA子さんのご両親は、教会に相談に来られたのでした。さめざめと泣きながら話をするA子さんの母親の姿に、私も同じ娘を持つ親として、もし我が娘が同じような状況に置かれたら…と想像すると、母親の気持ちが、痛いほど伝わってきました。 その日以来、ご両親は娘に帰って来てもらいたい一心で、教会に参拝し、親神様にお願いする日々が続きました。その後、何度も連絡を重ね、私は、やっとA子さんに会えることになりました。 A子さんは、マンション最上階をすべて借りきった暴力団事務所で暮らしていました。私は、そのマンションの駐車場に車をとめ、一人でエレベーターに乗り込みました。 「今から、見たことのない未知の場所へと飛び込んで行くけれど、A子さんは見知らぬ私と会ってくれるのだろうか…?この先、私は一体どうなってしまうのだろう…?」そのうちにエレベーターは最上階に着き、そのドアが開いた瞬間! … 私は、目の前に現れた三匹のドーベルマンに激しく吠えられ、それを聞きつけた大勢の組員に取り囲まれてしまいました。 そこには、映画やドラマでしか見たことのない世界が広がっていました。この光景を目の当たりにした時、私はエレベーターのドアを早く閉めて、すぐに逃げ出したいと思いました。 しかし…その思いとは裏腹に、私の足は前へ前へと勝手に進んでいました。きっと教祖が、私の背中を優しく押して下さったのでしょう。教祖の「救けてやっておくれ…」とのお声が聞こえて来るようでした。 そして、誰とどんな言葉を交わしたのか…記憶がないまま、一番奥の部屋に通され、A子さんと初めて対面したのでした。私はA子さんに「ご両親がどれほど心配し、神様に願い続けていることか…」と話しましたが、「神様や親のことなど眼中にない」と言わんばかりの態度で、目も合わせず全く話にならない状態でした。 そんな中、A子さんのご両親は、毎月おぢばへ帰り、神様のお話を聞く別席を運び続けました。そして早朝から教会に足を運び、ひのきしんをし、おつとめに娘の無事を祈り続ける日々が流れていきました。 すると、A子さんはある日を境に「夫と縁を切り実家に帰りたい」と言うようになりました。ご両親は大変喜びました。しかし喜ぶのも束の間、そう簡単には縁を切らせてもらえない世界であります。親神様にたすけて頂く以外に道はありません。 教会長である主人は、何とかA子さんに救かってもらいたいと、長い年月をかけて、この場では語りつくせない程の真実の限りを尽くしました。その姿を親神様はお受け取り下さったのでしょう、やっとの思いで、A子さんは三歳と二歳の子供を連れて実家に戻ってくる事が出来ました。 早速、私達夫婦はA子さんと三歳の娘さんを連れ、おぢばに帰り別席を運ぶことにしました。その別席の帰りの車中で、私がA子さんに「今日は一日中、下の子をお世話してくれたお母さんにお礼を言いましょうね」と声をかけると「なぜお母さんにお礼を言わなきゃいけないの?」と、そっぽを向きました。 その時です。突然三歳の娘さんが、ぜんそくの発作で苦しみ出したのです。すぐに私はおさづけの取り次ぎをさせて頂こうと「何もわからないだろうけど、手を合わせて親神様、教祖と唱え続けて下さいね」とA子さんに声をかけました。 A子...
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  • お産のふりかえり
    2024/12/13
    お産のふりかえり 静岡県在住  末吉 喜恵 子育て支援の活動をしている中で、保護者同士の交流の時間をとることが多く、色んなテーマでお話をしてもらうのですが、その中の一つに「お産のふりかえり」というものがあります。 お産には、人それぞれ顔が違うのと同じように、それぞれにドラマがあって、同じ母親であっても一人目と二人目では全く違ったりします。願い通りのお産にならないことも多く、それを受け入れられずに苦しんでいる人もいます。ただ、母親となり、初めて我が子と対面した時の喜びは誰しも忘れないもので、いずれはどんなお産であっても受け入れることが出来るのではないかと思います。 私のお産についてお話をします。第一子は、妊娠中に病気が見つかったこともあり総合病院で産みました。妊娠後、卵巣に腫瘍が発見され、5ヶ月の時に卵巣を一つ摘出。がんの疑いもありましたが、「ボーダーライン」、いわゆる良性でもなく悪性でもないという結果で、私の命も子供の命もギリギリセーフでたすかりました。 予定日の5日前に少しだけ破水してしまい、そのまま入院。でも、なかなか陣痛が起きません。破水していてあまり長くは持たせられないので、陣痛促進剤をまるまる二日間も投与し続けました。二晩ほぼ一睡もできない中、三日目にようやく自然の陣痛が起き、そのままお産になりました。 先生方があの手この手の医療行為を用いて下さり、三日かかってようやく産まれてきてくれました。夫も三日間ずっと付き添い、背中をさすったりしてくれていたので、私と同じように体力を消耗していました。予想外のことばかりの出産でしたが、元気な赤ちゃんの姿を見たら、不思議なことにそれまでのしんどさはどこかへ消えました。 二度目は、長女が二歳を過ぎた頃に妊娠が分かりました。ウキウキしながら病院へ行ったのですが、先生が首を傾げて難しい顔をしています。「また病気が再発したのかしら?」と不安に思っていると、「双子ですよ」とのこと。家族中で驚きや楽しみ、不安など、色々な思いが湧きました。 お腹が大きくなるのはとても早く、妊娠6カ月の時に友人から「私の臨月の時みたい」と言われました。胎動ももちろん二人分で、お腹の動きで二人の性格の違いまで何となく分かるようでした。 有り難いことに、妊娠中は何のトラブルもなかったのですが、総合病院としての方針で、双子は帝王切開で産むと決められていました。「自然分娩で産ませてください」と最後まで粘って訴えたのですが、方針は変わらず、管理入院をしている時も、どの先生からも「帝王切開が安全です」と説得されました。 37週0日で予定通り手術を受け、二人の女の子を産みました。近所で床上浸水の被害が出るほどの物凄い雨の中、出てきたのは2380グラムと2450グラムの大きな赤ちゃん。「こんなに大きな子が二人も入ってたんだ!」と妊娠中の自分を褒めたい気持ちになり、無事に産まれてきてくれたことに心から感謝しました。すべて順調で、保育器に入ることも黄疸が出ることもなく、産後7日目で三人一緒に退院できました。 三回目のお産は、双子を産んでから一年七か月後に妊娠が分かりました。同じ総合病院で診てもらうと、「帝王切開の後は続いて帝王切開になります」ときっぱり言われ、やはり自然分娩で産みたいという気持ちが強く、近所の助産院に行きました。院長さんは、「第一子を自然分娩で産んでいるから大丈夫でしょう」と快く引き受けて下さいました。 ちょうどその頃、帝王切開の後に自然分娩で産んだ母親が、子宮が破裂して亡くなったと新聞やニュースで話題になりました。でも私は、人間本来の持っている力を信じ、親神様のご守護を信じました。 その日、朝から起きた陣痛は、弱くなったり強くなったりの繰り返し。もともと微弱陣痛の体質なので、やはり時間はかかります。お昼頃産院に行ったのですが、まだ子宮口が全く開いておらず一旦帰宅し、子供たちに夕飯を食べさせ、お風呂に入れて三人とも寝かしつけました。 夜になって痛みが出たので再び産院に行くと、まだ子宮口は3...
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  • 彼女に足らなかったもの
    2024/12/06
    彼女に足らなかったもの 大阪府在住  山本 達則 家庭内での感情のぶつかり合いは、古今東西、当たり前にあることです。人間同士の関係が近ければ近いほど、尾を引くことも多いと思います。他人であれば、付き合いをやめるとか、距離を置くとか、日常に支障がない程度に対処できるかも知れませんが、関係が近ければそういう訳にはいきません。時には、悲しい思いや、怒り、悔しさなどで感情のコントロールが難しくなることもあるのではないでしょうか。 長年の母親による愛情を束縛と感じ、家出をしたAさんという女性がいました。音信不通の数年が過ぎた頃、Aさんは母親へ「SOS」の電話をかけました。「お母さん、たすけて」。母親は、「とにかく、どうにかして帰ってきなさい」と伝えました。 Aさんは良からぬ友達にだまされて、大きな借金を抱えてしまい、借金取りに追われていました。相談を受けた私は、その問題が解決するまで、Aさんに教会に住み込んでもらうことにしました。その間、母親と私はAさんの問題解決に奔走しました。母親は娘のために寝る間も惜しんで、あちらこちらと駆けずり回っていました。 一方のAさんは、教会で生活する中で、親が子供にかける「愛情」とはどんなものなのかを客観的に見る機会を得ることになりました。 当時、教会には私の子供が高校生を筆頭に四人と、里子が数人いました。私の妻が娘に「嫌ごと」を言う場面も当然ありました。娘は決まって不機嫌な態度をとります。また、私が父親として息子に「小言」を言う場面もありました。息子も当然、不機嫌な顔をします。 「早く帰ってきなさい」「宿題しなさい」「早く寝なさい」「冷たいものばかり飲んでいたらダメ!」「好き嫌いしないで何でも食べなさい!」 Aさん自身も母親に言われて経験したであろう光景が、そこにありました。 そんな彼女が一番に思ったのは、「わざわざ子供が嫌がることを言わなければいいのに」ということでした。しかし、そのような場面を繰り返し見ているうちに、Aさんはあることに気づきました。 いつもは親の小言に不機嫌な態度をとる子供たちが、「分かった」「ごめん」と、素直に反省することがあります。その時の私と妻の表情が、ものすごく嬉しそうに見えたというのです。 すると、その嬉しそうな親の姿を見て、子供たちの態度も少しずつ変わってきたと。今度は反対に、子供たちが親に褒められようと、進んでお手伝いをしたり、言われなくても宿題をしたり、進んで嫌いなものを食べたりする場面が多くなったと言います。 そんな様子に、私たち親の小言も減っていったと彼女は感じたようです。私自身、それほど意識していたわけではないのですが、それが私たち親子の様子を客観的に見ることが出来たAさんの実感でした。 そしてAさんは、自分には、親を喜ばせてあげようという気持ちがなかったことに気づいたのです。彼女も幼い頃は、親に褒めてもらいたいという思いで、子供らしい素直な行動をとったこともあるでしょう。しかし、自我に目覚めてからは、親に反抗することしか出来ずに、その結果、家を出るという選択をしてしまったのです。 彼女は教会に来てしばらくして、私に尋ねてきました。 「私は何が間違っていましたか?」 私は、彼女にこう答えました。 「間違っていたんじゃなくて、足らなかっただけだと思うよ」と。 「親に対して、年齢なりに不満は募ってくるものだよ。でも、親の立場になって考えたらどうだろう? わざわざ子供に嫌われたり、嫌がられたりしながらも、小言を言うのは何のため? それは間違いなく子供のためだよね。それを想像する余裕が、少し足らなかったんじゃないかな。 それともう一つ、ここには里子がいるでしょ。この子たちは、親と一緒に生活したくても出来ない子たちなんだ。嫌ごとや小言を言って、心配してくれる親が側にいることも、当たり前ではないよ。親がいてくれることを、もっと喜ばないとね」 私は精いっぱい、彼女に気持ちを伝えました。彼女はそれから間もなく、初めて母親の誕生日にケーキを買って実家に戻りました。 ...
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  • あなたはどんなジュースが好きですか?
    2024/11/29
    あなたはどんなジュースが好きですか? 埼玉県在住  関根 健一 先日友人と、ある映画の話題になりました。その映画は、無肥料無農薬の自然栽培で野菜を作っている隣町の農園を題材にしたドキュメンタリー映画でした。 その農園では従業員やパートスタッフに混じって、「研修生」と呼ばれる人たちが作業を手伝っています。近頃、自然栽培という言葉を耳にすることも増えてきましたが、まだ日本の野菜の流通量の0.1%にも満たないそうで、この新しい農法を学びに、全国各地からたくさんの人が研修生としてやってくるのです。 その中には、農家になるのが目的ではなく、仕事漬けの人生に疲れてしまい、「土に触れながら自分の人生を見つめ直したい」との理由で研修を受けに来る人もいて、そこで働く人の姿は実に多様です。その参加者たちに寄り添いながら、自らも一緒に成長していく農園経営者の姿に心を打たれた映画監督から、ドキュメンタリー映画を撮りたいと声があがったのです。 実は、この映画には私と長女も出演しています。というのも、映画の題材となった農園の経営者Aさんは、私の長女が通う特別支援学校の「現場実習」の受け入れをお願いした方で、その時にちょうど映画の撮影が入っていたのです。特別支援学校の現場実習とは、障害のある生徒たちが、職場や福祉作業所での体験を通じて、本人の適性や相性などを見極めることを目的にした制度です。障害の種類や程度にもよりますが、長女が通う学校では、高等部に上がると一つの現場に一週間ほど通って実習を行います。 一般企業への就労を目指す生徒は、受け入れてくれそうな企業に実習を受けに行くのですが、長女のように生活のほとんどの場面で介助が必要になる生徒は就労が難しいため、卒業後には生活介護事業所と呼ばれる福祉サービスに通うことが多いのです。そうしたサービスを提供する場所は地域でも限られているので、現場実習は多くの場合、卒業後に通う福祉施設の「お試し」のようになってしまいます。 しかし、在学中、5回に分けて延べ10カ所で行う現場実習のすべてを「卒業後に通えそうな施設」だけで考えるのは、可能性を狭めているようで、とてももったいないことではないかと感じていました。 そう感じるようになったきっかけは、まだ長女が小学校低学年の頃にさかのぼります。情報通信技術を使った障害児支援について研究されている、ある大学教授の講演を聴いた時のことでした。 その先生は、聴講に来ていた我々、障害のある子の保護者に向かってこう問いかけました。 「お子さんに、オレンジジュースとリンゴジュースどっちがいい?と聞いて、リンゴジュースと答えたら、この子はリンゴジュースが好きな子なんだ、と思っていませんか?」と。 多くの保護者がうなずく中で、先生はこう続けました。 「その子は、ぶどうジュースを飲んだ経験がありますか? グレープフルーツジュースを飲んだ経験がありますか? 障害のある子の選択肢は、支援する人が提示した物の中に限られてしまうことがほとんどです。失敗も含めて、自ら選び経験する場を与えてあげること。その子が本当に好きなものに出会えるかどうかは、支援者によるところが大きいのです」と。 これを聞いて、ハッとしました。それ以来、私たち夫婦は、長女の現在の「できる、できない」を基準にするのではなく、長女の「やりたい」ことを基準に考え、「できた、できなかった」という体験に触れさせることで、自ら選択し、決定する力をつけてあげられるように心がけてきました。 話は戻って、長女が高等部に上がり、現場実習のあり方に私が疑問を感じ始めていた時のことです。 Aさんの農園で障害のある子供たちの農業体験の企画があり、そこでアドバイスをして欲しいと依頼され、参加しました。その時、障害児の親御さんたちの細かな要望に対して、まずは「できること」を前提に前向きに話すAさんの姿を見ていて、「この農園なら現場実習をお願いできるんじゃないか」と直感しました。そこで、「娘の現場実習を受け入れてくれませんか?」とお願...
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  • こども食堂×補導委託
    2024/11/22
    こども食堂×補導委託               千葉県在住  中臺 眞治 3年ほど前、妻から「こども食堂をやってみたい」と相談がありました。「近所に親しい人がいない」という地域の方々の不安の声を耳にすることが増え、安心できる顔なじみの関係づくりが必要ではないか、というのがその理由でした。 ちょうどその頃、教会では働きに出ることが困難な方が数人一緒に暮らしていて、そうした方々の活躍の場にもなるのではという期待もあり、始めることにしました。色々と不安な点もありましたが、同じ地域に以前からこども食堂を実施している教会があり、そちらのご夫婦に諸々のアドバイスを頂きながら、令和4年3月に第一回を開催することができました。 こども食堂を始めて3カ月が経った頃、地域の自治会から質問状が届きました。「なぜこども食堂を始めたのか?」「宗教の勧誘は行うのか?」などなど、そこには地域の方々の不安がつづられていました。 「地域に親しい人がいるという安心をみんなでつくる」をコンセプトに始めたこども食堂でしたが、地域に溶け込めていないのは私ども教会の側だったのだと、あらためて気づかされた出来事でした。 しかし、それらの質問にお答えしたところ、自治会長さんがいたく感激され、自ら宣伝役を買って出て下さったばかりでなく、宗教施設でこども食堂をすることに反対の声が上がると、自ら説得に赴いて下さいました。そうした協力のおかげもあり、現在では毎回50世帯ほどの親子連れや一人暮らしの高齢者などが利用されるようになりました。 こども食堂は、お手伝いをして下さる方やお米や野菜を寄付して下さる方など、様々な方の協力なくしては開催することができません。しかし、そういう活動であるからこそ、多くの皆さんとたすけ合いの輪が広がっていることを実感できるのです。 そのこども食堂に、時々、補導委託の少年たちがボランティアスタッフとして参加してくれることがあります。補導委託とは、非行のあった少年を家庭裁判所からの委託で預かり、更生のお手伝いをする活動です。 ある日、家庭裁判所から一本の電話が掛かってきました。ある少年を3日間教会で預かり、こども食堂のお手伝いをさせてあげてほしいとの依頼でした。ただ、職員さんが付け加えて言うには、「少年は非行を繰り返しており、いつも不貞腐れていて、裁判官にも盾突くような子です。それでも預かっていただけるでしょうか?」とのこと。 私は「もちろん大丈夫ですよ」と伝えてその日を待ちました。 約束の日になり、A君はやってきました。A君は最初こそ緊張した面持ちでしたが、聞いていた話とは違って、とても素直な少年でした。掃除や買い出し、お弁当の詰め込みなども一生懸命手伝ってくれて、教会で暮らしている方々とも、他愛のない会話をしながら楽しそうに過ごしていました。 こども食堂当日を迎え、私が「今日のテーマは、とにかく来た人を喜ばすということだよ」と伝えると、その意を汲んで懸命に努めてくれました。そして予定の3日間が過ぎ、みんなから「ありがとう。お疲れさま。また来てね」と見送られながら、自宅へと帰っていきました。 その翌日、家庭裁判所から電話がありました。「実は昨晩、A君から『この度は、大変貴重な経験をさせて頂きありがとうございました』と、裁判所にお礼の電話が掛かってきたのです。そんなことを言う子だとは思いませんでしたし、言葉遣いまですっかり変わっていました。中臺さん、一体何をしたのですか?」 そう聞かれても、私は特別何かをした覚えがないので、返事に困ってしまいました。 その後、半年ほど経った頃に、その職員さんにお会いする機会がありました。私がA君のことを尋ねると、職員さんはA君が書いた補導委託についての感想文のことを話して下さいました。そこには、こうつづられていたそうです。 「自分は友達と比べながら、なんて恵まれない家庭なのだろうかと思い、不貞腐れて生きてきた。でも教会に行ったら、自分よりもっと恵まれない家庭の人たちがいた。では、その人たちは不貞腐...
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