• 本当のながいき
    2025/04/25
    本当のながいき                     兵庫県在住  旭 和世  私どもがお預かりさせて頂いている教会では、六年前に「こども食堂」を始めました。こども食堂を始めたきっかけは、そのスタートの少し前にさかのぼります。  当時、私は4人の子供の子育て真っ最中。三人の小学生に、末っ子は重度の心身障害児で在宅での医療的ケアをしていました。  末っ子の優子(ゆうこ)は「18トリソミー」という染色体に異常がある病気でした。病院の先生からは生涯寝たきり、一歳まで生きられる確率は一割と言われていましたが、ご守護をたくさんいただき、その頃優子は二歳を迎えようとしていました。  とはいっても自発呼吸ができないので、24時間呼吸器が手放せず、体重は新生児の赤ちゃん並みの4キロほど。発達はものすごくゆっくりで、首が据わることも、歩くことも、話すこともできず、小さなベビーベッドが彼女の居場所でした。  そんな24時間目が離せない彼女を育てながらも、教会でこども食堂ができないだろうかと考えていました。というのも、実は我が家には優子が産まれる前に、同じ18トリソミーの次男を子育てしていた経験があったので、医療的ケアにも、気持ちにも少し余裕があったのです。  次男の孝助の時は、想像を絶する医療的ケアの大変さに、ドキドキ、オロオロして気が休まることはなく、毎日が必死で余裕は全くありませんでした。私は外に出ることもなく、一日中孝助のベッドにへばりついて介護生活をしていました。  心はだんだん内向きになり、人に会うのもしんどくなり、訪問看護師さんに会う元気すらなくなっていく自分がいました。その頃はちょうど教祖130年祭の年祭活動一年目でした。「年祭の旬に一人でも多くの方にお道の素晴らしさを伝えて、おぢばに帰っていただこう!」という活気にあふれた周りの状況とは裏腹に、内向きな自分の心だけが取り残されているような気がしていました。 そんな中、教会につながる方が「孝助くんは教会の宝物だね」と言ってくださったり、近くの教会の奥さんが「和世ちゃん、孝ちゃんを連れてたとえ一軒でも二軒でもにをいがけに行くなら、私ついていくから!」と声を掛けてくださったり、「孝ちゃんに会うと元気もらえるわ!」と言って下さるかたなど、周りの皆さんの寄り添いのおかげで、私の心はだんだん外に向かうようになっていました。たとえ一軒でもにをいがけに行こう! 毎日を喜ぼう! と前を向けるようになり、大変だと思っていた日々に喜びが増えていきました。  その後、孝助は130年祭を迎える前に二歳で出直しました。突然のことに、辛い悲しい気持ちをたくさん感じながらも、それだけではない、これまでの感謝と信仰があったおかげで先を楽しみに通らせていただけることも実感していました。  その後のまさかの優子の出産! もう「喜ぶ!」しか答えはありません。忙しい中にも喜びばかりでした。  しかし、ふと「こんなにありがたい、嬉しい毎日を過ごせるようになったのも、信仰のおかげ、周りの皆さんの寄り添いのおかげ…。何か神様や地域の方々へご恩返ししなければ申し訳ないな」と思うようになり、教会に居てでもできる「にをいがけ」はないかなと考えるようになりました。 そこで、以前からやってみたいと思っていた「こども食堂」はどうだろう?と思いつきました。本当にできるのか不安もありましたが、会長である主人が心配しながらも協力してくれることになり、お料理好きな母も快く承諾してくれて、何とか活動を始めることができました。 こども食堂の日には、訪問看護師さんがその日に合わせて優子のケアに来てくださったり、優子の薬を配達していた薬剤師さんもボランティアに来てくださったりと、色々な方が教会に出入りしてくださるようになりました。コロナ禍でも活動は継続し、優子のベッドのそばでたくさんのお弁当を作ったり、子供たちの学習支援もできるようになり、教会に新鮮であたたかい空気が流れていくような気がしました。 そんな活動が軌道に乗ってきたのを見届...
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  • 親より深い愛情
    2025/04/18
    親より深い愛情                   岐阜県在住  伊藤 教江 親より深い愛情はない。しかし、親より深い愛情もある……親は子供を深い愛情で育て、子供はその愛情を受けて育って行くものだと信じています。しかし、そんな私の認識が揺らぐような出来事がありました。 当時、ある夫婦は二人の子供に恵まれ、新しく家も建て、家族4人で幸せに暮らしていました。しかし、いつ頃からかだんだんと、母親の喜怒哀楽の感情の起伏が激しくなり、家事も一切しなくなり、暴言・暴力が増えていきました。 そのため父親は、仕事はおろか慣れない家事もままならず、母親の暴力から子供たちを守るのに必死で、遂には疲れ果てて精神を病んでしまいました。そして家族4人は、教会長である主人に付き添われて、教会の門をくぐったのでした。 まだまだ親の愛情の必要な13歳の姉と9歳の弟の生活は、ゴミがあふれ足の踏み場もない家の中で、掃除・洗濯などはもちろん、どこでどう寝ていたのか、一体今日まで何を食べてきたのか、いつの残り湯かわからない泥水のようなお風呂にどう入っていたのか…。想像をするだけで涙がこぼれました。 子供たちは学校でも「気持ち悪い、臭い」といじめにあい、水をかけられたこともありました。それを知ってか知らずか、母親の暴言・暴力はますます酷くなっていき、姉のA子ちゃんは母親の罵声を浴びながら何度も馬乗りになられ、首を絞められたのでした。さらには心を病み、生きる気力を失った父親からも、「一緒に命を絶とう」と、二度にわたり無理やり海へ連れて行かれたこともありました。 A子ちゃんは、そんな自分自身も辛く苦しい中、小さくて病弱な弟を必死で守ってきました。この子供たちは、主人と出会う前には泣くに泣けない、誰にもたすけを求められない、まさに地獄のどん底にいたのでした。 教会ではまず、この家族に温かいご飯をたくさん食べてもらい、私はA子ちゃんと一緒にお風呂に入りました。するとA子ちゃんは自ら「背中を流します!」と言って、私の背中を洗いながら懸命に気を使ってくるのです。 私は驚きました。「まだ13歳なのに…もっと甘えてもいいのに…」A子ちゃんから出る言葉や態度からは、「家には帰りたくない。たすけて欲しい」との思いが痛いほど伝わってきました。 家族4人は、その日から慣れない教会生活が始まりました。2人の子供は学校も転入することになりましたが、A子ちゃんは特に学校生活に辛い経験があり、登校することにとても不安を抱えていました。 幸いにも、A子ちゃんはうちの娘と同じ歳でしたので、娘と同じクラスにしてもらい、娘には「登校から下校までずっと、一緒にそばについて心寄り添って欲しい…」と頼みました。 一方、母親には主人が付き添い、幾つもの病院を回りながら検査を重ねた結果、脳が委縮していく「ピック病」と診断され、入院することになりました。父親は、妻の病名も分かり入院してくれたのでホッとしたのか、「もう教会にはいたくない。家へ帰りたい」と言うようになりました。 父親が家に帰ると言い出したその時、A子ちゃんは弟を連れて、私の前で突然、きちんと正座をして、手をついて頭を畳にこすりつけるようにしてこう言いました。「お願いです。私たちはこの教会に置いて下さい。お父さんと家には帰りたくないです。どうかお願いします…お願いします!」 その子供たちの姿を目の前にした時、私の中にあった「親と子」という認識が大きく揺らいだのです。私は「親」というのは、子供可愛い一条で、自分は寝なくても食べなくても子供のために尽くすのが親である。そして「子供」から「親」を見た時に、わけがあって愛情を持って育ててもらえなくても、子供は親のそばにいたいものであり、親のそばにいることが一番幸せなことであると信じていました。 しかし、この2人の子供の姿は、そうではなかったのです。子供は親以上に自分を大切に育ててくれる人のそばにいることを望んでいるのだと痛感しました。 その後、父親は2人の子供をおいて家へ帰っていきました。子供...
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  • 子育ては自分育て
    2025/04/11
    子育ては自分育て 静岡県在住  末吉 喜恵 子育ては自分育てと言われています。子供の成長と同様に自分も成長するのだなと実感しています。 私は5人の子供を育てていますが、子供たちもそれぞれ違う性格で、私の性格とも全然違います。赤ちゃんの時からその性格を尊重してあげることはとても大切ですが、難しい時もあります。 長女は私とはまるで正反対の性格です。私は楽天家で「なんとかなるさー」と、考えるより先に行動してしまうタイプですが、長女は慎重派で「なんとかならなかったらどうしよう?」と考え、石橋を叩いて渡るタイプです。 小学生の時も、「忘れ物したらどうしよう」「お友達とケンカしたらどうしよう」「怪我したらどうしよう」などと、何をするにも不安が先に来るのです。「大丈夫、大丈夫」と言っても納得がいくまでランドセルの中身を確認したり、自分の気持ちを整えるまでとても時間のかかる子でした。 「早く、早く」という言葉をできるだけ使わないように、私もできるだけ心を落ち着かせて付き合っていました。 こんなこともありました。次女と三女の双子が生後3ヶ月で、長女が2歳の時の話です。双子用ベビーカーを押し、長女を歩かせて近所をお散歩していました。押しボタン信号があり、信号が青に変わったので横断歩道を渡りました。 私は長女が付いて来ているものと思い、後ろを振り返ると、まだ横断歩道を渡らずに反対側の電柱の周りをくるくる回っていました。信号はすぐ赤になり、車道側が青色になってしまいました。 私はドキドキしながら「そこで待ってて!」と長女に言いましたが、もし車道に飛び出したらどうしようと、気が気でありませんでした。しかし、ドライバーの方が「いいですよ。迎えに行ってください」というジェスチャーをして待ってくれていました。 そのおかげでベビーカーをその場に置き、横断歩道を渡って長女を迎えに行き、抱きかかえながら戻ってくることができました。親切なドライバーの方にお礼を申し上げ、たすかったと心から感謝しました。 また、長男は無鉄砲なところがあり、公園につくと遊具にまっしぐらに向かい、レジャーシートを敷いているうちに見失ってしまうこともありました。 長男が3歳の時のことです。とても大きな海の見える公園に行くと、子供たち4人がそれぞれ違う方向へ遊びに行きました。探しに行くと、3人の娘たちはすぐ見つかりましたが、長男が見つかりません。連休中で、しかも新しくできた海賊船があるとても有名な公園なので、大勢の人で賑わっていました。 いろんな遊具や砂場、水遊びができるところなどを探しましたが、見つかりません。3人の娘たちに聞いても「知らない」と素知らぬ顔で遊んでいます。夫と二人で探し回りましたが、やはり見つからず次第に焦ってきました。 すると放送が流れ、「迷子のお知らせです」と、長男の名前がアナウンスされました。大人に囲まれて大泣きしていたようです。たすけてくださった方には、本当に感謝しました。 子育てをしていると本当に色々なことが起きてくるものです。これ以外にも小さな親切は色々なところにあります。その小さな親切を見逃すことなく、感謝の気持ちを言葉で伝えていくことが大切だなと思いました。 子供は、親自身が成長するために神様から預からせて頂いている、大きな宝物です。子供を通じて学び、鍛えられ、心を成長させることが出来ているように思います。 小さい頃は自分で出来ることが少なく、親が色々と世話取りをしてあげなければならないし、将来のことを心配してとやかく言ってしまうこともあります。子供の生きる力をいかに信じるかが試されているようです。 ややもすると、子供を自分の分身のように思ってしまうこともありますが、子供一人ひとりに持って生まれた徳分があり、その子供の個性を尊重してあげることが大切だと思います。 自分の思いと子供の思いが違う時でも心に折り合いをつけ、できるだけ子供の気持ちに寄り添い、その思いを分かってあげたいです。 私は子育て支援活動をしていますが、講座などでお...
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  • 親孝行とは
    2025/04/04
    親孝行とは 埼玉県在住  関根 健一 先日、ある映画を見ました。 「いまにまるを」というタイトルの15分弱の短編ドキュメンタリー作品です。この映画の主人公である新田さんは、天理教の教会長として活動する傍ら、学習支援や障害福祉事業を通じて、長年にわたり障害者のサポートを続けてきた方です。 新田さんには、重度の知的障害がある娘さんがいらっしゃいます。彼女は言語によるコミュニケーションが難しく、排泄を含む生活の多くの場面で介助が必要です。 この映画では、新田さんが支援してきた子供たちや、娘さんとの生活を通じて得た気づきや教訓が、短い時間の中にギュッと凝縮されています。障害のある娘と生活する私たち夫婦にとって、この映画は非常に心に響くもので、観終えたあとしばらく涙が止まりませんでした。 そんな映画の中で、新田さんが語るとても印象的な言葉がありました。娘さんがまだ幼かった頃、新田さんは恩師から「娘さんには親孝行させなくちゃいけないよ」と言われたそうです。 「でも、娘は自分の身の回りのことも出来ないのに、親孝行させるとはどういうことだろう?」と疑問に思った新田さんは、恩師に「この子に親孝行をさせるには、どうしたらいいのですか?」と問いかけました。 すると恩師は、こう答えたそうです。「親孝行とは、子供が親を喜ばせること。どんな子でも、何もできなくても、その子のすべてを親が喜べば、その子は親孝行していることになるんだよ」。 その言葉を聞いて以来、新田さんは「子供のプラスを探す」ということを常に心がけてきたと語っていました。 実はこの話は、新田さんと出会った頃にも聞かせて頂いたことがあり、私の心に深く刻まれました。それ以来、折に触れてこの言葉を思い返し、娘が通う特別支援学校のPTA会長を務めていた頃には、卒業式の祝辞でこのエピソードを引用したこともありました。その際、多くの先生や保護者から「親孝行のお話、素晴らしかったです」と感想を頂いたことを、今でも鮮明に覚えています。 先日、80歳を過ぎた母が庭で転倒し骨折してしまいました。幸いにも命に別状はなかったのですが、突然の入院生活に母も戸惑っているようです。 私もできる限り頻繁に会いに行きたいのですが、コロナ禍以降、面会の時間や回数に制限があり、月に数回しか顔を見せることができません。この状況はとても寂しいのですが、「母の子供」としての感情から一歩引いて、「教会長」という立場で母の身に起きた出来事を、神様の思召しとして捉え直すよう努めています。 その中で、教祖140年祭に向かう年祭活動の2年目であることや、骨折という形で母がお見せ頂いたという事実に意味を見出そうと考えました。 そうした中で、ふと新田さんの話を思い出しました。 「親が子供のすべてを喜ぶことで、子供は親孝行となる」という言葉ですが、これを逆にして「子供が親のすべてを喜ぶことが親孝行につながる」とも考えられるのではないかと思ったのです。 私は幼い頃から母に様々なことを教えてもらい、多くを学んできました。そして今、母が高齢になり、以前のように何かを教え諭されることが少なくなったことに、寂しさを感じています。しかし、母の身に起きた出来事を通して私が神様の思いと向き合い、信仰を深めることができれば、それは「母が信仰者として私を仕込んでくれたのだ」と言えるのではないかと思うのです。 こうして考えると、人間はその「行い」だけでなく、「周囲の心」から救われることもあるのではないでしょうか。 極端な例かもしれませんが、現代ではメディアやインターネットの発達により、日々多くの犯罪がニュースとして報じられています。もちろん犯罪を犯すことは決して許されるべきではありませんが、その背景には、本人だけでなく周囲の環境や社会のあり方にも原因がある場合が多いのではないかと感じます。 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、ただ行いを非難するだけでなく、そこから得られる教訓を社会の改善に生かすことができれば、未来は少しずつ変...
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  • おさづけの不思議
    2025/03/28
    おさづけの不思議 タイ在住  野口 信也 私は結婚して3年後、タイの大学院で学ぶため、三度目の渡泰をしました。その時も、以前と同じように病気の方の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぐため、病気の方のお宅や病院を訪れていました。特にがんや脳腫瘍など、命に関わる病気の方の所へは毎日通っていたので、大学で講義を受けた後、3~4カ所は行く所がありました。 毎日大渋滞が起こるタイには、日本にはないバイクタクシーというものがあります。渋滞をすり抜けて走ってくれるので、4~5時間かかるところを1~2時間程度で移動することができ、たいへん重宝していました。 タイでの最初の2年間、大学へ入って3年半、そして大学院の時と、こうしたことを6年近くも続けていると、時には全く知らない方から「病人がいるので来てもらえないか」という電話がかかってくることもありました。人口およそ600万人を擁するバンコクであっても、少しずつでも続けることで、知らぬ間に色々なつながりができるのだなと感じました。 大学院を修了する少し前のことです。大学の頃からの友人K君から、「お付き合いしている彼女の祖母が危篤の状態だ。おそらく葬儀が明日から一週間行われるので参列してほしい。このおばあさんには、何とか自分たちの結婚式に出席してもらいたいと思っていたけど…」と電話が入りました。 このおばあさんは99歳で入退院を何度も繰り返していて、いよいよなので親族を呼ぶよう医師に言われたそうです。まだご存命ということなので、私はすぐ病院にかけつけ、最後となるであろうおさづけをさせてもらいました。 すると、その夜K君から、明日の葬儀は中止でおばあさんは自宅療養することになったとの連絡が。翌日から帰国するまで、毎日おばあさんのおさづけに通い、K君と孫の結婚式にも出席してもらうことができました。 その後、日本に帰国してから7年ほど経った冬に、タイから一本の電話が入りました。K君からで、彼の義理の姉が良性腫瘍の摘出のため開腹手術をしたところ、悪性腫瘍で腹部全体が侵されていて、卵巣を取るなどできる限りの処置をしたが、もう手の施しようがないとのこと。医師からは「あと3カ月、長くても半年です」と宣告されたそうです。 病人さんのご主人が電話に出られ、「私たち夫婦と娘一人、いつまでも仲良く暮らしていきたい、何とか救けて下さい」と言われました。 ご主人は以前のおばあさんのおたすけのことを知っておられ、真っ先に天理教の神様にたすけを求めてこられたようですが、私はそういう切羽詰まった場面にとても弱く、どうしたら良いか焦っていました。 それでもおさづけをさせてもらうしかないと思い直し、勤務先である天理教海外部の上司に3日間だけ休暇をお願いすると、「人をたすけるためなら何日でも構わない」と許可を下さったので、すぐタイへ出発しました。 飛行機の中で、ふと『教祖伝逸話篇』に書かれている、当時の最も丁寧だと思われる病気平癒の方法を思い出しました。「座りづとめ」と「十二下りのてをどり」を一座とし、一日に昼三座、夜三座、これを三日間行う方法です。 以前、海外の学生がその逸話篇を呼んで、一日6回のおつとめを実際にやってみようと試みたことがありました。私がタイへ到着するのが朝の5時で、帰るのは二日後の夜中の12時ですから、ちょうど丸三日間。よし、これで行こうと決めました。 空港へ到着し、その足で友人宅へ行き一度目のおさづけ。その後すぐバスで一時間半かけて神様を祀っているタイ出張所へ。そこで一回目の座りづとめと十二下りのてをどり。所要時間は約一時間。その後また友人宅へ戻り、病人さんに二度目のおさづけ。そしてまたタイ出張所へ行き、二回目の「座りづとめと十二下りのてをどり」。こうして3回、4回と繰り返しました。 さらに、夜から朝にかけての時間は病人さんのいるお宅へ泊めてもらい、その一室で5回目、6回目をつとめました。これを三日間、6回、6回、6回と繰り返しつとめ、三日目の夜中過ぎに挨拶もそこそこに帰国。おたすけ三昧の...
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  • 私は100倍嬉しいです
    2025/03/21
    私は100倍嬉しいです 大阪府在住  山本 達則 私が教会長になって、4、5年経った頃のことです。私と同年代の男性の信者さんがおられました。お互い結婚の時期も近く、長男同士が同級生で、私の長女とその方の次男が同級生でした。住まいが近いこともあって、子供たち同士、きょうだいのように仲良くしていました。 その方の奥さんは、天理教のことは全く知らない方でしたが、信仰家庭に嫁いだということで、信仰について積極的に学び、教会の用事も進んで手伝ってくれていました。その奥さんが、ただ一度だけ、私に怒りを露わにしてきたことがありました。 私は教会長に就任した当初、会長を務める一方、世間で仕事を持っていました。しかし、ある時そのことに行き詰まりを感じ、夫婦で相談した結果、仕事を辞めるという選択をしました。すると、私のその決断に対して、奥さんがこう言われたのです。 「会長さんは無責任過ぎると思います。せめて子供たちが父親の仕事を理解して納得できるまでは、今の形で育ててあげるべきだと思います。子供たちが可愛そうです」。それは、私の子供たちのことを思っての怒りでした。 その頃は私もそれなりの収入があったので、時には家族で外食に行ったり、世間並みに子供たちに流行の物を買ってやることも出来ました。しかし、仕事を辞めれば、それまで子供たちにしていたことが出来なくなるのは火を見るより明らかでした。奥さんは、私たち夫婦のその決断が理解できなかったのです。 当時、まだ若かった私は、必死になって自分の思いを説明しました。 「欲しい物が与えられる喜び、行きたい所に行ける喜びは確かにあります。ある意味、親として子供に出来る限りそうしてあげるべきだという思いもあります。でも、欲しい物が与えられない、願い通りにならないということの中にも喜びはあると思うのです。うちの子供たちには、そのような喜びを感じてもらえるように育てていきたいんです」。 奥さんにはそれでも納得して頂けず、ギクシャクした感じが続きましたが、教会へは参拝に来てくれていました。 このご夫婦には二人の息子さんがいて、次男はダウン症を患っていました。ダウン症は特定疾患にも指定されている、確立された治療法のない病気で、子供は様々なリスクを背負って生まれてきますが、ご夫婦はそのことを受け入れ、一生懸命に育てていました。 私が仕事を辞めて数年が経った頃、ある日の教会行事に奥さんがダウン症の次男を連れて参加していました。食事の時間になり、私は部屋の端から様子を見ていたのですが、息子さんは、やはり健常な子供に比べて発育も遅れ気味で、偏食もきつく、4歳になってもまだお箸は使えず、フォークやスプーンの使い方も覚束ない感じで、常に奥さんがそばに寄り添って食事をしていました。 私が「大変やね」と声を掛けると、奥さんは私の方を振り向いて、満面の笑顔で「これ、すごく楽しいんですよ」と答えてくれました。 私はあまりの笑顔に驚いてしまい、「そうなんやね」と返すだけでその場の会話は終わりました。食事のあと、子供たちが喜々として遊んでいる様子を見ていた私に、奥さんがあらためて話しかけてくれました。 「会長さん。会長さんが仕事をやめた時、私が何て言ったか覚えてますか?子供たちに対して無責任だって言ったんです。だって、ものすごく腹が立ったから。けど、あの時、会長さんが話してくれた『与えられない中にも喜びはある』ということが、この子を育てていてよく分かるんです。 会長さんも子供が四人おられて、そのお子さんの成長を感じることは、間違いなく嬉しいことですよね。でも私は、それより100倍は嬉しいです! 首が据わって、お座りして、ハイハイして、つかまり立ち、よちよち歩き…。親として、その成長する姿を見るのは本当に嬉しいことだと思います。でも、うちの子供は首が据わったのが生後半年を過ぎてからでした。 ある日、夜中に目が覚めると、この子が寝返りを打とうとしていました。私は主人を起こして、必死に寝返りしようとしているこの子を朝まで...
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  • 父の教え
    2025/03/14
    父の教え 千葉県在住  中臺 眞治 思い出すだけで罪悪感や後悔の念に駆られる出来事が、誰にでも一つや二つ、あるものではないでしょうか。そして、たいていの人の場合、そうした記憶に蓋をし、なかったことにしながら日常を生きているのだと思います。 私の場合、そうした記憶が数えきれないほどあります。恥をさらすようですが、今日はその一つをこの場で打ち明けながらこれからの生き方を考えてみたいと思います。 今から21年前、大学を卒業後、東京にある日本橋大教会で勤務をしていた時の話です。当時、私が与えられた役割はホームレス状態の方の自立支援を行うことでした。大教会から3階建ての建物を貸して頂き、そこで一緒に暮らしながら自立に向けて様々な手助けを行うというものです。 また、夕づとめ後には天理教の教えを取り次ぐ時間を設けて色々と話をしていたのですが、そこで繰り返していたのは「徳を積むことが大切ですよ」という話でした。 「徳がないから行き詰まるんですよ。だから徳を積みましょう」と、あたかも自分は徳のある側で、相手は徳のない側であるかのような考えで話をしていたのです。あまりにも高慢な考えに、いま思い出すとゾッとしますが、当時の私は、自分の生活が大教会青年という立場に守られているものに過ぎないということに気が付いていなかったのです。決して徳があるから不自由なく過ごしているというわけではありませんでした。 そのことに気が付いたのは教会長に就任してからでした。前回の放送でもお話ししたのですが、孤独や貧困の中で心の中が不足ばかりになって行き詰まり、「あー、自分も徳のない人間の一人なんだ」と、そこで初めて自覚ができました。 そもそも徳とは何でしょうか。皆さんの周りにも、「この人は徳のある人だなー」と感じる方が何人もおられると思います。その方々を思い浮かべてみると、立場や財産があるから徳のある人だなと感じるわけではないし、それらがなくても徳のある人だなと感じることはあると思います。幸せに生きていくために、身体に必要なのが栄養であり、心に必要なのが徳ではないかと思います。 私の場合、父を見ていると、徳のある人だなと感じます。身内のことで恐縮ですが、私にとっては大きく影響を受けた存在でもあるので、ここでは父のエピソードを交えながら、「徳を積むってこういうことじゃないかな」、そして、「徳を積むとこうなっていくんじゃないかな」ということを語ってみたいと思います。 今から30数年前の話になりますが、私の実家である報徳分教会に一人のホームレスの方が訪ねてきました。50代の男性で「おにぎりを一つ分けて下さい」とのことでした。父はすぐに用意をして手渡しました。 するとその男性はとても喜んでくれたので、父は嬉しくなって「教会に住んでくれたら三食出しますよ」と提案しました。以来、その男性は74歳で亡くなるまで教会で一緒に暮らしていました。 このことがきっかけとなり、教会には人生に行き詰った方が次々と身を寄せるようになり、いつの間にかその人数はのべ700人近くになっていました。 そのような中で父がよく話していたのは、「どうしたら人が喜ぶか。どうしたら人がたすかるか。それだけ考えていたら幸せになりますよ」という言葉でした。 このようなエピソードを聞くと、優しい穏やかな父なのだと思われるかも知れませんが、元々はとても短気な性格で、若い頃は瞬間湯沸かし器のような怒り方をする人でした。それが段々と穏やかになり、60歳を過ぎた頃からはいつ会っても上機嫌な人に変わっていったのでした。そうした父の変化を見ていると、色んな人と関わることが自分自身の成長につながるのだなと感じます。 どうしたら徳が積めるのか。天理教の原典「おさしづ」では、 「不自由の処たんのうするはたんのう。徳を積むという。受け取るという」(M28・3・6) と教えられています。 不自由には、お金や物の不自由もあれば、人間関係の不自由や健康面での不自由など、様々な苦労があると思います。父の場合、困難を抱えた方々を大勢引き受...
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  • 病気のタカラ箱
    2025/03/07
    病気のタカラ箱 岡山県在住  山﨑 石根 令和6年12月4日、長男が天理教教会本部の教祖殿にて、おさづけの理を拝戴しました。 おさづけの理とは、病む人に取り次いで病気の回復のご守護を願う、何よりも尊い天の与えです。別席という神様の大切なお話を9回、繰り返し聞かせて頂くことで心を入れ替え、たすけ一条を誓って願い出るところに、天理教教祖「おやさま」から、真柱様を通してお授け下さる効能の理です。 この日を迎えるにあたり、長男も昨年の2月から毎月お話を聞かせて頂き、この日を以て無事に拝戴する運びとなりました。私たち夫婦は、教祖殿の参拝場の後方でドキドキしながらその瞬間を待ちわびていたのですが、妻はこの緊張感を「なんか出産に立ち会っているみたいやわぁ」と表現していました。 また、偶然にもその時、教祖殿で若いお母さんが、赤ちゃんをおんぶひもで抱っこしながら、2歳くらいの男の子に一生懸命おさづけを取り次いでおられました。ふと隣を見ると、妻が「あぁ、何かうちの長男と次男を思い出すわぁ。私もああやって何回も取り次いだなぁ」と感極まって涙を流していました。 というのも、実際に5人いる兄弟の中で、なぜか長男だけが本当によく病気を経験する子どもだったからなのです。彦摩呂さんみたいな比喩表現になりますが、「あんたは、まるで病気の宝箱やなぁ」と言うほど色々な病気を経験し、その度に私たち夫婦はこれまで幾度となく彼におさづけの取り次ぎをしてきたのです。 長男は幼い頃から熱性けいれんを持っていました。病気の知識のない私たち夫婦が、初めて彼の発作を目の当たりにした時は、白目を向いて口から泡を吹き、手足を震わす姿に、気が動転してパニックになったことを今でもよく覚えています。 それが熱性けいれんという病気だと教えてもらい、高熱が出る時に発作が起きるという理由から、発熱の兆候が見られたら必ずけいれん予防の座薬を入れるということを、彼が小学校に上がるまで繰り返していました。 とはいえ子どもなので、気がつかないうちに高熱が出て、発作を起こしてしまうことも度々でした。 熱が出る度に座薬を入れられるので、成長とともに「弟や妹たちはそんなことしないのに、なんで僕だけがこんなことされるん?」と、いつも大泣きしながら訴えていたのが、昨日のことのように思い出されます。 3歳の頃には弱視と診断され、その治療のためにメガネをかけることを余儀なくされ、就学前にはアイパッチという眼帯で片目をふさいで生活するという苦労も経験しました。さらに6歳の時には、盲腸の手術で初めての入院も経験。手術後には成人なら輸血が必要なレベルの貧血という診断を受け、しばらく鉄剤を服用したこともありました。 私は毎日々々、彼の目におさづけを取り次ぎましたし、熱性けいれんが起きる度に、何か病気になる度に、教会家族の誰かが彼におさづけを取り次いできたのでした。 4歳ぐらいの時には不思議な体験もしました。母親を追いかけて階段を上がっている時に、3、4段上から落ちてしまい、気を失いました。その時、妻が神殿まで抱っこして連れて行き、駆けつけた父が一心不乱におさづけを取り次ぐと、最後の柏手と同時に意識を取り戻したのです。 誠に鮮やかな神様のご守護を目の当たりにしながらも、すでに119番に連絡を入れていたので、念のため脳に影響がないかを確認するとの理由で搬送され、生まれて初めて救急車に乗るという経験もしました。 このように、思い出せるだけでも、まるで病気の宝箱のように、なぜか長男だけがたくさんの経験をしました。その都度々々に私たち夫婦や家族のおさづけの取り次ぎがあったことを思う時、「今度はこの子が人だすけのために取り次ぐ側になれるんだなぁ」と、教祖の御前で一入感慨深い気持ちが湧き上がってきました。 おさづけの理の拝戴後、教祖殿で見た親子連れの光景を妻が長男に伝えました。 「お母ちゃんはな、なんかあんたら兄弟を思い出して、涙が出てきたわぁ。ほんま大きなったなぁ」と言いながら、妻は再び涙を流していました。 「...
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