• おさづけの不思議
    2025/03/28
    おさづけの不思議 タイ在住  野口 信也 私は結婚して3年後、タイの大学院で学ぶため、三度目の渡泰をしました。その時も、以前と同じように病気の方の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぐため、病気の方のお宅や病院を訪れていました。特にがんや脳腫瘍など、命に関わる病気の方の所へは毎日通っていたので、大学で講義を受けた後、3~4カ所は行く所がありました。 毎日大渋滞が起こるタイには、日本にはないバイクタクシーというものがあります。渋滞をすり抜けて走ってくれるので、4~5時間かかるところを1~2時間程度で移動することができ、たいへん重宝していました。 タイでの最初の2年間、大学へ入って3年半、そして大学院の時と、こうしたことを6年近くも続けていると、時には全く知らない方から「病人がいるので来てもらえないか」という電話がかかってくることもありました。人口およそ600万人を擁するバンコクであっても、少しずつでも続けることで、知らぬ間に色々なつながりができるのだなと感じました。 大学院を修了する少し前のことです。大学の頃からの友人K君から、「お付き合いしている彼女の祖母が危篤の状態だ。おそらく葬儀が明日から一週間行われるので参列してほしい。このおばあさんには、何とか自分たちの結婚式に出席してもらいたいと思っていたけど…」と電話が入りました。 このおばあさんは99歳で入退院を何度も繰り返していて、いよいよなので親族を呼ぶよう医師に言われたそうです。まだご存命ということなので、私はすぐ病院にかけつけ、最後となるであろうおさづけをさせてもらいました。 すると、その夜K君から、明日の葬儀は中止でおばあさんは自宅療養することになったとの連絡が。翌日から帰国するまで、毎日おばあさんのおさづけに通い、K君と孫の結婚式にも出席してもらうことができました。 その後、日本に帰国してから7年ほど経った冬に、タイから一本の電話が入りました。K君からで、彼の義理の姉が良性腫瘍の摘出のため開腹手術をしたところ、悪性腫瘍で腹部全体が侵されていて、卵巣を取るなどできる限りの処置をしたが、もう手の施しようがないとのこと。医師からは「あと3カ月、長くても半年です」と宣告されたそうです。 病人さんのご主人が電話に出られ、「私たち夫婦と娘一人、いつまでも仲良く暮らしていきたい、何とか救けて下さい」と言われました。 ご主人は以前のおばあさんのおたすけのことを知っておられ、真っ先に天理教の神様にたすけを求めてこられたようですが、私はそういう切羽詰まった場面にとても弱く、どうしたら良いか焦っていました。 それでもおさづけをさせてもらうしかないと思い直し、勤務先である天理教海外部の上司に3日間だけ休暇をお願いすると、「人をたすけるためなら何日でも構わない」と許可を下さったので、すぐタイへ出発しました。 飛行機の中で、ふと『教祖伝逸話篇』に書かれている、当時の最も丁寧だと思われる病気平癒の方法を思い出しました。「座りづとめ」と「十二下りのてをどり」を一座とし、一日に昼三座、夜三座、これを三日間行う方法です。 以前、海外の学生がその逸話篇を呼んで、一日6回のおつとめを実際にやってみようと試みたことがありました。私がタイへ到着するのが朝の5時で、帰るのは二日後の夜中の12時ですから、ちょうど丸三日間。よし、これで行こうと決めました。 空港へ到着し、その足で友人宅へ行き一度目のおさづけ。その後すぐバスで一時間半かけて神様を祀っているタイ出張所へ。そこで一回目の座りづとめと十二下りのてをどり。所要時間は約一時間。その後また友人宅へ戻り、病人さんに二度目のおさづけ。そしてまたタイ出張所へ行き、二回目の「座りづとめと十二下りのてをどり」。こうして3回、4回と繰り返しました。 さらに、夜から朝にかけての時間は病人さんのいるお宅へ泊めてもらい、その一室で5回目、6回目をつとめました。これを三日間、6回、6回、6回と繰り返しつとめ、三日目の夜中過ぎに挨拶もそこそこに帰国。おたすけ三昧の...
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  • 私は100倍嬉しいです
    2025/03/21
    私は100倍嬉しいです 大阪府在住  山本 達則 私が教会長になって、4、5年経った頃のことです。私と同年代の男性の信者さんがおられました。お互い結婚の時期も近く、長男同士が同級生で、私の長女とその方の次男が同級生でした。住まいが近いこともあって、子供たち同士、きょうだいのように仲良くしていました。 その方の奥さんは、天理教のことは全く知らない方でしたが、信仰家庭に嫁いだということで、信仰について積極的に学び、教会の用事も進んで手伝ってくれていました。その奥さんが、ただ一度だけ、私に怒りを露わにしてきたことがありました。 私は教会長に就任した当初、会長を務める一方、世間で仕事を持っていました。しかし、ある時そのことに行き詰まりを感じ、夫婦で相談した結果、仕事を辞めるという選択をしました。すると、私のその決断に対して、奥さんがこう言われたのです。 「会長さんは無責任過ぎると思います。せめて子供たちが父親の仕事を理解して納得できるまでは、今の形で育ててあげるべきだと思います。子供たちが可愛そうです」。それは、私の子供たちのことを思っての怒りでした。 その頃は私もそれなりの収入があったので、時には家族で外食に行ったり、世間並みに子供たちに流行の物を買ってやることも出来ました。しかし、仕事を辞めれば、それまで子供たちにしていたことが出来なくなるのは火を見るより明らかでした。奥さんは、私たち夫婦のその決断が理解できなかったのです。 当時、まだ若かった私は、必死になって自分の思いを説明しました。 「欲しい物が与えられる喜び、行きたい所に行ける喜びは確かにあります。ある意味、親として子供に出来る限りそうしてあげるべきだという思いもあります。でも、欲しい物が与えられない、願い通りにならないということの中にも喜びはあると思うのです。うちの子供たちには、そのような喜びを感じてもらえるように育てていきたいんです」。 奥さんにはそれでも納得して頂けず、ギクシャクした感じが続きましたが、教会へは参拝に来てくれていました。 このご夫婦には二人の息子さんがいて、次男はダウン症を患っていました。ダウン症は特定疾患にも指定されている、確立された治療法のない病気で、子供は様々なリスクを背負って生まれてきますが、ご夫婦はそのことを受け入れ、一生懸命に育てていました。 私が仕事を辞めて数年が経った頃、ある日の教会行事に奥さんがダウン症の次男を連れて参加していました。食事の時間になり、私は部屋の端から様子を見ていたのですが、息子さんは、やはり健常な子供に比べて発育も遅れ気味で、偏食もきつく、4歳になってもまだお箸は使えず、フォークやスプーンの使い方も覚束ない感じで、常に奥さんがそばに寄り添って食事をしていました。 私が「大変やね」と声を掛けると、奥さんは私の方を振り向いて、満面の笑顔で「これ、すごく楽しいんですよ」と答えてくれました。 私はあまりの笑顔に驚いてしまい、「そうなんやね」と返すだけでその場の会話は終わりました。食事のあと、子供たちが喜々として遊んでいる様子を見ていた私に、奥さんがあらためて話しかけてくれました。 「会長さん。会長さんが仕事をやめた時、私が何て言ったか覚えてますか?子供たちに対して無責任だって言ったんです。だって、ものすごく腹が立ったから。けど、あの時、会長さんが話してくれた『与えられない中にも喜びはある』ということが、この子を育てていてよく分かるんです。 会長さんも子供が四人おられて、そのお子さんの成長を感じることは、間違いなく嬉しいことですよね。でも私は、それより100倍は嬉しいです! 首が据わって、お座りして、ハイハイして、つかまり立ち、よちよち歩き…。親として、その成長する姿を見るのは本当に嬉しいことだと思います。でも、うちの子供は首が据わったのが生後半年を過ぎてからでした。 ある日、夜中に目が覚めると、この子が寝返りを打とうとしていました。私は主人を起こして、必死に寝返りしようとしているこの子を朝まで...
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  • 父の教え
    2025/03/14
    父の教え 千葉県在住  中臺 眞治 思い出すだけで罪悪感や後悔の念に駆られる出来事が、誰にでも一つや二つ、あるものではないでしょうか。そして、たいていの人の場合、そうした記憶に蓋をし、なかったことにしながら日常を生きているのだと思います。 私の場合、そうした記憶が数えきれないほどあります。恥をさらすようですが、今日はその一つをこの場で打ち明けながらこれからの生き方を考えてみたいと思います。 今から21年前、大学を卒業後、東京にある日本橋大教会で勤務をしていた時の話です。当時、私が与えられた役割はホームレス状態の方の自立支援を行うことでした。大教会から3階建ての建物を貸して頂き、そこで一緒に暮らしながら自立に向けて様々な手助けを行うというものです。 また、夕づとめ後には天理教の教えを取り次ぐ時間を設けて色々と話をしていたのですが、そこで繰り返していたのは「徳を積むことが大切ですよ」という話でした。 「徳がないから行き詰まるんですよ。だから徳を積みましょう」と、あたかも自分は徳のある側で、相手は徳のない側であるかのような考えで話をしていたのです。あまりにも高慢な考えに、いま思い出すとゾッとしますが、当時の私は、自分の生活が大教会青年という立場に守られているものに過ぎないということに気が付いていなかったのです。決して徳があるから不自由なく過ごしているというわけではありませんでした。 そのことに気が付いたのは教会長に就任してからでした。前回の放送でもお話ししたのですが、孤独や貧困の中で心の中が不足ばかりになって行き詰まり、「あー、自分も徳のない人間の一人なんだ」と、そこで初めて自覚ができました。 そもそも徳とは何でしょうか。皆さんの周りにも、「この人は徳のある人だなー」と感じる方が何人もおられると思います。その方々を思い浮かべてみると、立場や財産があるから徳のある人だなと感じるわけではないし、それらがなくても徳のある人だなと感じることはあると思います。幸せに生きていくために、身体に必要なのが栄養であり、心に必要なのが徳ではないかと思います。 私の場合、父を見ていると、徳のある人だなと感じます。身内のことで恐縮ですが、私にとっては大きく影響を受けた存在でもあるので、ここでは父のエピソードを交えながら、「徳を積むってこういうことじゃないかな」、そして、「徳を積むとこうなっていくんじゃないかな」ということを語ってみたいと思います。 今から30数年前の話になりますが、私の実家である報徳分教会に一人のホームレスの方が訪ねてきました。50代の男性で「おにぎりを一つ分けて下さい」とのことでした。父はすぐに用意をして手渡しました。 するとその男性はとても喜んでくれたので、父は嬉しくなって「教会に住んでくれたら三食出しますよ」と提案しました。以来、その男性は74歳で亡くなるまで教会で一緒に暮らしていました。 このことがきっかけとなり、教会には人生に行き詰った方が次々と身を寄せるようになり、いつの間にかその人数はのべ700人近くになっていました。 そのような中で父がよく話していたのは、「どうしたら人が喜ぶか。どうしたら人がたすかるか。それだけ考えていたら幸せになりますよ」という言葉でした。 このようなエピソードを聞くと、優しい穏やかな父なのだと思われるかも知れませんが、元々はとても短気な性格で、若い頃は瞬間湯沸かし器のような怒り方をする人でした。それが段々と穏やかになり、60歳を過ぎた頃からはいつ会っても上機嫌な人に変わっていったのでした。そうした父の変化を見ていると、色んな人と関わることが自分自身の成長につながるのだなと感じます。 どうしたら徳が積めるのか。天理教の原典「おさしづ」では、 「不自由の処たんのうするはたんのう。徳を積むという。受け取るという」(M28・3・6) と教えられています。 不自由には、お金や物の不自由もあれば、人間関係の不自由や健康面での不自由など、様々な苦労があると思います。父の場合、困難を抱えた方々を大勢引き受...
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  • 病気のタカラ箱
    2025/03/07
    病気のタカラ箱 岡山県在住  山﨑 石根 令和6年12月4日、長男が天理教教会本部の教祖殿にて、おさづけの理を拝戴しました。 おさづけの理とは、病む人に取り次いで病気の回復のご守護を願う、何よりも尊い天の与えです。別席という神様の大切なお話を9回、繰り返し聞かせて頂くことで心を入れ替え、たすけ一条を誓って願い出るところに、天理教教祖「おやさま」から、真柱様を通してお授け下さる効能の理です。 この日を迎えるにあたり、長男も昨年の2月から毎月お話を聞かせて頂き、この日を以て無事に拝戴する運びとなりました。私たち夫婦は、教祖殿の参拝場の後方でドキドキしながらその瞬間を待ちわびていたのですが、妻はこの緊張感を「なんか出産に立ち会っているみたいやわぁ」と表現していました。 また、偶然にもその時、教祖殿で若いお母さんが、赤ちゃんをおんぶひもで抱っこしながら、2歳くらいの男の子に一生懸命おさづけを取り次いでおられました。ふと隣を見ると、妻が「あぁ、何かうちの長男と次男を思い出すわぁ。私もああやって何回も取り次いだなぁ」と感極まって涙を流していました。 というのも、実際に5人いる兄弟の中で、なぜか長男だけが本当によく病気を経験する子どもだったからなのです。彦摩呂さんみたいな比喩表現になりますが、「あんたは、まるで病気の宝箱やなぁ」と言うほど色々な病気を経験し、その度に私たち夫婦はこれまで幾度となく彼におさづけの取り次ぎをしてきたのです。 長男は幼い頃から熱性けいれんを持っていました。病気の知識のない私たち夫婦が、初めて彼の発作を目の当たりにした時は、白目を向いて口から泡を吹き、手足を震わす姿に、気が動転してパニックになったことを今でもよく覚えています。 それが熱性けいれんという病気だと教えてもらい、高熱が出る時に発作が起きるという理由から、発熱の兆候が見られたら必ずけいれん予防の座薬を入れるということを、彼が小学校に上がるまで繰り返していました。 とはいえ子どもなので、気がつかないうちに高熱が出て、発作を起こしてしまうことも度々でした。 熱が出る度に座薬を入れられるので、成長とともに「弟や妹たちはそんなことしないのに、なんで僕だけがこんなことされるん?」と、いつも大泣きしながら訴えていたのが、昨日のことのように思い出されます。 3歳の頃には弱視と診断され、その治療のためにメガネをかけることを余儀なくされ、就学前にはアイパッチという眼帯で片目をふさいで生活するという苦労も経験しました。さらに6歳の時には、盲腸の手術で初めての入院も経験。手術後には成人なら輸血が必要なレベルの貧血という診断を受け、しばらく鉄剤を服用したこともありました。 私は毎日々々、彼の目におさづけを取り次ぎましたし、熱性けいれんが起きる度に、何か病気になる度に、教会家族の誰かが彼におさづけを取り次いできたのでした。 4歳ぐらいの時には不思議な体験もしました。母親を追いかけて階段を上がっている時に、3、4段上から落ちてしまい、気を失いました。その時、妻が神殿まで抱っこして連れて行き、駆けつけた父が一心不乱におさづけを取り次ぐと、最後の柏手と同時に意識を取り戻したのです。 誠に鮮やかな神様のご守護を目の当たりにしながらも、すでに119番に連絡を入れていたので、念のため脳に影響がないかを確認するとの理由で搬送され、生まれて初めて救急車に乗るという経験もしました。 このように、思い出せるだけでも、まるで病気の宝箱のように、なぜか長男だけがたくさんの経験をしました。その都度々々に私たち夫婦や家族のおさづけの取り次ぎがあったことを思う時、「今度はこの子が人だすけのために取り次ぐ側になれるんだなぁ」と、教祖の御前で一入感慨深い気持ちが湧き上がってきました。 おさづけの理の拝戴後、教祖殿で見た親子連れの光景を妻が長男に伝えました。 「お母ちゃんはな、なんかあんたら兄弟を思い出して、涙が出てきたわぁ。ほんま大きなったなぁ」と言いながら、妻は再び涙を流していました。 「...
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  • 経験してみること
    2025/02/28
    経験してみること 埼玉県在住  関根 健一 コロナ禍での社会的な制限が解け、一年以上が経ちました。会いたい時に、会いたい人に会えなかった時間を取り戻すかのように、最近は週末ごとに各地域でのイベントが盛んに開催されているように感じます。 先日、長女が通う障害者事業所のある隣町で開催される「福祉まつり」のご案内が届きました。地域住民の皆さんが作り上げてきた30年以上の歴史があるイベントで、長女が通う事業所も毎回出店し、利用者の皆さんで作った授産品や飲食物を販売しています。それに加え、今回は普段行っている音楽活動の発表の場としてステージにも上がるため、是非家族で応援に来てくださいとのことで、長女の送迎も兼ねて妻と行ってみることにしました。 会場に到着後、模擬店などで賑わう広場を一回りして、ステージがある文化会館のロビーで長女を支援員の方にお願いし、私たち夫婦は客席へ。他の事業所や任意で活動するグループの発表もあり、それらを楽しみながら長女の出番を待ちました。 何週間も前から「ステージ緊張する」とこぼすぐらいにプレッシャーを感じていた長女も、いきいきと歌うことができ、私たちもホッと胸をなでおろしました。 ステージが終わった後は解散になり、家族でお昼ご飯がてら会場を回りました。会場内では障害福祉、高齢者福祉に限らず、こども食堂や里親連盟、小中学生のボランティア体験に携わる人たちが、活動の紹介や作品展示を通じて啓発を行い、活動資金を得るための飲食販売もしていました。美味しいものが食べられるとあって、普段あまり福祉に関わる機会も少ないであろう家族連れも多く来場していて、福祉にふれる機会として素晴らしいお祭りだと、妻と感心していました。 会場は公共施設なので、バリアフリーでどんな方でも安心して参加できるように色々な配慮がされていますが、結構混雑していました。 今回に限らず、都心の駅や商業施設でもそうなのですが、車椅子の長女を押しながら人混みを歩くのにはかなり神経を使います。というのも、長女の車椅子は座位保持装置といって、体に合わせてオーダーメイドで作ったクッションを乗せているものなので、一般的な車椅子に比べてかなり大きいのです。 車椅子を押しながら人混みを歩く経験をしたことがある人はあまり多くないかも知れませんが、大きな荷物を載せた台車で人混みの中をすり抜けると言えば、イメージしやすいかと思います。しかも車椅子の場合、乗せているのが生身の人間ですから、より注意深く、長女はもちろん、周りの歩行者にも怪我がないよう進まないといけません。 ところが、周りの人は急いでいるからか、時折目の前をスルッと横切る人がいます。もちろん悪気はないと思うのですが、こちらはヒヤリとします。例えるなら、車を運転していて、横から急に自転車が連続して飛び出してくるような感じです。なので、長女と一緒に人混みを歩く時は、一人で歩く時に比べてかなりの時間がかかるのです。 話は変わりますが、全国の小学校で20年ほど前から「総合的な学習の時間」という授業が設けられています。国語や算数などの教科にとらわれず、総合的、横断的に学習することを目的にできたものと聞いています。 次女が小学三年か四年の頃だったでしょうか。この「総合的な学習の時間」の一環で、近々車椅子体験をするということで、友達と一緒に長女の車椅子に乗っていたことがありました。生まれた頃から家に車椅子がある次女は、慣れた手つきで操作することができます。それを見ていた友達は、「上手だね!すごいね!」と言って目を輝かせていました。 その後、次女の通う小学校で車椅子体験を見学する機会がありました。普段乗ることのない車椅子を前に興奮気味の子供たちでしたが、恐る恐る乗り始めるとすぐに慣れてきて、押してくれる友達に「右」「左」と指示をしていました。体験しながら、同じグループ内で口々に感想を述べ合っています。子供の持ち前の素直さが、初めて体験したことをスポンジのように吸収していくのだなあと感心しました。 ...
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  • 「親孝行」と「人助け」
    2025/02/21
    「親孝行」と「人助け」                     兵庫県在住  旭 和世 「旭さん、お腹の赤ちゃんに異常がみられます。すぐに大きな病院へ行ってください」 「え?…」信じ難い言葉が聞こえてきました。4人目の子どもが授かり、7カ月検診の時でした。 翌日、県立こども病院の診断で「お子さんにはかなり重度の障害がみられ、『18トリソミー』という病気だと思われます」と知らされました。 「18トリソミー?」 聞いたことのない病名に唖然とする私たち夫婦に、病院の先生は続けて、「産まれてこられるかどうかも分かりません。産まれてくることが出来ても、一歳まで生存できる可能性は一割です」と仰いました。説明を聞けば聞くほど、だんだん目の前の景色が色を失っていくように感じました。  帰ってから調べてみると、染色体に異常がある病気で、流産、死産となる可能性が高く、生まれてきても生命予後は厳しいと書かれていました。そんな言葉の数々に胸が張り裂けそうで、一気に不安が押し寄せてきました。  それまでは元気な子を3人授かっていたので、何の疑いもなく元気な子が産まれてくるだろうと思っていました。まさに青天の霹靂でした。私は「何か自分の通り方が悪かったんだろうな。何がいけなかったんだろう…」と、自分を責めるようなことばかり考えていました。  そんな中、主人がおぢばから帰ってきた日に、「今日、神殿のかんろだいの前でふと、自分たちに必要な親孝行と人助けの心を神様が促してくださっているような気がして、赤ちゃんの名前が浮かんできた」と言い、お腹の子の名前を「親孝行」の〝孝〟と、「人助け」の〝助け〟という文字をとって、孝助(こうすけ)と名付けてくれました。そして、何とか産まれてきてほしいと夫婦で願い続けました。 をびや許しを頂き、親神様のご守護のもと、孝助は小さな小さな体で産まれてきてくれました。しかし、重度の障害があるため、すぐにNICU・新生児集中治療室に運ばれ、保育器の中での治療が始まりました。  自発呼吸ができず、口から呼吸器を挿管していたので、哺乳をすることもできず、搾乳機で絞った母乳を管から胃に送り込んでいました。これまでとは全く違う育児に、母親であっても何もしてあげられない無力さを感じました。  まさか自分が重度の心身障害児の母親になるなど想像もしていなかったので、不安やとまどいの中、必死で毎日を過ごしていました。そんなある日、私は数カ月前の出来事を思い出しました。  その日はおぢばがえりの日でした。神殿までの砂利道を歩いていると、尊敬するS奥さんに偶然出会いました。 「奥さん、お久しぶりです!お元気ですか?」 「あら、和世ちゃんに会えるなんて! ちょうどよかった。はい、これよかったら聞いてみて!」奥さんは一枚のCDを手渡してくださいました。 急なプレゼントに戸惑いながらもお礼を言い、教会に戻りすぐに聞いてみました。すると、ある養護学校の先生のお話が流れてきました。障害を持つ子どもさんのことを新たな視点で伝えてくれる内容で、今まで聞いたことのない素晴らしいお話でした。 この時もらったCDは、きっと神様からのプレゼントだったのでしょう。「今からあなたに障害を持つ子を授けるから、大事に育ててほしい」と言われたような気がして、この出来事は決して偶然ではなく、必然だったのだと思いました。 神様のお言葉に、   にんけんハみな/\神のかしものや   なんとをもふてつこているやら   (三号41)   (人間は皆々神の貸しものや、何と思うて使ているやら) とあります。 自分の体が神様からお借りしているものなら、我が子も神様からお借りする命。そんなかけがえのない命を、障害があるという理由でネガティブに捉えていた自分が恥ずかしくなりました。 今ここに置いて頂いている我が子の命を、親である自分自身が喜び、今日一日を過ごせたことを神様に感謝申し上げることで、この子の人生は幸せで有意義なものになると思いました。 そして、親孝行と人助けからとった「孝助」という名前...
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  • 僕は誰ですか?
    2025/02/14
    僕は誰ですか? 岐阜県在住  伊藤 教江 私たちには必ず親がいます。その親を、本当に私の親なのだろうか…と疑ったことはありますか? 私は、幼い頃、親の言うことを聞かなかったために、「お前は橋の下で拾ってきた子」と叱られたことがあります。しかし、たとえそう言われても「私の本当の親は誰なの…?」と思ったことすらありません。なぜなら、どんなことがあっても、自分の親を間違いなく親だと信じ切っているからです。だからこそ安心して暮らせるのだと思うのです。 何年も前、教会で一人の少年を預かることになりました。その少年は、小学校を卒業するまでは何事もなく、家族で幸せに暮らしていました。 しかし、中学に入ったある日、たまたま自分の戸籍を見て、今まで何の疑いもなく信じてきた親が、実は本当の親ではなかった…という事実を初めて知りました。 少年は、「僕の本当の親は誰なの? …もう誰も信じられない!」と、自分が信じていたすべての「元」が崩れ出し、この先の将来の夢をも一瞬にして見失ってしまいました。とても素直で成績も優秀な少年でしたが、その後、不登校・ひきこもりになり、生きる気力さえもなくしてしまいました。 私たち夫婦は、この少年が生まれる前からの事情や、その後なぜ実の母親K子さんが少年を育てられなかったかということも知っていました。 さかのぼること十数年前、実はK子さんがこの少年をお腹に身ごもっていたことを、K子さん自身も家族も誰一人として分からなかったのです。なぜならK子さんは精神的な病で、自分のことも周りの状況も判断出来ない状態だったからです。身体も大きくて太っていたので、一緒に暮らしていた母親も妊娠には全く気づきませんでした。 当時、私たち夫婦は結婚して間もなく名古屋の地で布教をしていました。その時初めて、ネグリジェを着て真っ赤な口紅を付けて歩いていたK子さんと出会いました。 K子さんは精神的な病を患っていたので、会長である主人は、K子さんの頭におさづけを取り次いでいました。するとK子さんの母親から、「この子はひどい便秘ですから、お腹にもおさづけをお願いします」と言われ、主人はK子さんの頭とお腹におさづけを取り次ぐために、三日おきに往復三時間の道を歩いて、何ヶ月も家を訪ねていました。 そんなある日、「こんにちは。お元気ですか?」と主人が、K子さんの家の玄関を開けた途端、「この子妊娠していた!早く病院に連れて行って!」と叫ぶ母親の声と、産気づいたK子さんの姿が目に飛び込んで来たのでした。 主人は急いで一緒に救急車に乗り込み、産婦人科に行きましたが、K子さんは妊婦健診を一度も受けていないために出産の受け入れを拒否され、いくつもの病院をたらい回しにされました。そして、かろうじて赤十字病院で受け入れてもらうことが出来たのです。 妊娠したら風邪薬一つでも気を付けなければならないのに、K子さんは何年も前から精神薬と便秘薬を何種類も服用していたため、お医者さんから「今まで何をしていたんですか!99,9%奇形児です。覚悟しておいて下さい!」と、K子さんの旦那さんと間違えられた主人は、すごい剣幕で怒鳴られたのです。 K子さんの母親は、「なぜ次から次へとこんな苦労をしなければならないのでしょうか…」と、病院の待合室で泣き崩れました。長年にわたり精神的な病を患った娘さんのことで苦労し、その上、本人も家族も「いつ?どこで?」相手が誰かも分からないままの妊娠出産です。 私たちは、無事に出産出来ること、お腹の子を守って頂くことを必死に親神様に祈るしかありませんでした。そして…無事に出産。手にした赤児は男の子。 その赤児は、何と五体満足に元気に生まれて来てくれたのです! 医学の世界では考えられない奇跡が起こったのです。その時私たちは、「親神様は、K子さんを便秘にしてまでも、そのお腹におさづけを取り次ぐ道をおつけ下さり、お腹にいた赤児をお守り下さったのだ」と確信をしたのでした。 この赤児は直ぐにK子さんの両親と養子縁組をし、祖父母が実の親であると聞...
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  • 難産を経験したお母さんへ
    2025/02/07
    難産を経験したお母さんへ 助産師  目黒 和加子 リスナーの皆さん、「難産」と聞いてどんなお産を思い浮かべますか? 陣痛が来ているのに二日経っても三日経っても産まれない、体力と精神力を限界まで使い果たすような難儀なお産。あるいは分娩経過中に母体や胎児に問題が起き、緊急帝王切開になるのを難産と捉える人もいるでしょう。 誰でも楽々と産みたいですよね。でも、しんどい難産を経験する中で、特別な宝物を手にするお母さんもいるのですよ。 真夜中に入院してきた小倉奈々さんは、大阪の実家に里帰りしている初産婦さん。三日前に陣痛が来て来院したのですが、微弱陣痛で子宮口は全く開いていません。ドクターから「陣痛が弱くてまだまだお産になりません。家で休んでいてください」と言われて帰宅しました。 その翌日も来院したのですが、やはり微弱陣痛で子宮口は5ミリしか開いておらず、「入院するのは早過ぎます」と、再び帰されました。 日付けが変わった真夜中、本格的な陣痛が来て三回目の来院。子宮口は3センチ開大し、入院となりました。里帰り出産なので、お母さんが付きっきりでお世話をしています。 小倉さんは痛みと不安で三日間ほとんど眠れず、ヘトヘト、クタクタの状態。入院してから20時間後、子宮口が直径10センチの全開となり、やっと分娩室に入りました。息み始めると、胎児がいい感じで産道を下がり、〝パーン!〟とはじけるように破水しました。さあ、出産まであと一歩!だったのですが…。 破水した直後に内診すると、順調に産道を下がっていたはずの胎児が、何と上がっているではありませんか。おまけに真下を向いていたはずが、横向きになっています。破水の勢いで押し上げられ、頭の向きも変わってしまったのです。 横向きの場合、産道の硬い初産婦が経腟分娩をするのはかなり厳しく、息んでも息んでも胎児は下がってこれません。このまま狭い産道で圧迫を受け続けると、苦しい状態に陥ります。 〝これは困ったことになった。胎児の位置が高すぎて、吸引分娩も鉗子分娩もできない〟。ドクターと私が顔を見合わせ、次の手を考え始めたその時、胎児心拍数がガクンと低下。 トン、トン、トン、トン、と、馬が駆けるようにリズムよく打っていた胎児心拍が、トーーーン、トーーーン、トーーーン……。今にも止まりそう。 「緊急帝王切開や!5分でオペ室準備しろ!」分娩室に響く、医師の慌てた声。スタッフの緊張が一気に高まり、バタバタと走り回っています。 急いで麻酔をかけ、帝王切開が始まりました。切開した子宮の中を見ると、へその緒が赤ちゃんの右肩から左の腋の下にぐるんと巻き付いています。まるで駅伝選手のたすき掛けのよう。胎児をくるんでいた卵膜が破け、勢いよく破水したことで、子宮内圧が急激に変化し、へその緒に引っ張り上げられたのです。次々と困難が起きましたが、お産は無事終わりました。 退院の前日、お部屋を訪ねると、小倉さんは涙を浮かべています。 「どうしたの?」 「母に言われたんです。下から産まれる寸前までいったのに、陣痛と手術のどっちの痛みも経験せなあかんのは、あんたが高校生の時、散々やんちゃして親に心配かけたからや、行いが悪いから難産になったんやって。お姉ちゃんは、一人目は4時間で二人目は2時間、楽々と産んでる。昔から、日頃の行いがお産に出るって言うけど、ほんまやなあって」 「お母さん、厳しいね」 「昔、親に心配かけたのは事実です。でも、めっちゃ頑張ったのに…」 涙が止まらない小倉さん。私は彼女の背中をさすりながら問いかけました。 「今回、お産のスペシャルコースを経験して気づいたことある?」 「私、お産をなめてました。お姉ちゃんが楽々と産んでたから、私も楽勝やって。親戚のおばちゃんから『お産は棺桶に片足を突っ込むことや』って聞いて、大げさやなあって流してたけど、ほんまですね。死ぬかと思いました。赤ちゃんの心拍がゆっくりになって、お医者さんが慌てて帝王切開に切り替えますって言った時、産む私も命がけやけど、赤ちゃんも命がけやって分...
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