• 田舎坊主の七転八倒<名付けて不自由に>
    2024/07/11

    この地方では四十九日満中陰の法事の際、四十九個の小餅と鏡餅のような丸い餅一枚でつくった「笠餅(かさもち)」とよばれるものを、弘法大師のご修行姿に似せた人型に切る風習があります。四十九個は人間の骨の数、鏡餅は骨を覆う皮と肉と言い伝えられていて、亡きがら全てを埋葬する土葬習慣のあったところでは、分骨や忌み分けの意味を持っているのです。そして、この笠餅のなかの鏡餅を、杖をもち笠をかぶった弘法大師の修行姿に切り分けます。体の部分を持ち帰って食べると、その箇所の病が治るのだと信じられているのです。足が悪い人は足を、手が悪い人は手をもって帰るということになるのですが、現世利益とはいいながら、まことに信じがたいお話です。

    実を言うと、私は一度もこれを切ったことがありません。というのも、もし足の悪い人ばかりお参りに来たら、どうするのでしょう。お大師さんの足は二本だけなのです。親戚同士で取り合いになったり、自分がほしかったのに誰かさんに持って行かれたなどといやな思いをすることになるとしたら、法事に来て故人の冥福を祈り、しばらくは心穏やかに過ごすことができると思っている人にとっては、それは本末転倒ではないでしょうか。

    そうならないために私はいつも次のようにお話しします。「笠餅はお大師さんの人形には切らず、来られた方の数に適当に切り分けて下さい。そしてそれぞれいただいたものをご自身の悪い部分と思い、たとえば足と思い、手と思って持って帰ってください。お大師さんの修行姿に切れば足は二本しかないので二人しか救われませんが、自分が手にしたものを手と思い足と思えば、みんなが満たされ救われるじゃないですか。これがほんとうの満足というんですよ」と。

    でも最近、私が切らないことを知ってか知らずか、笠餅の切り方が書かれたものをコピーして餅屋さんがサービスでつけてくれるそうです。昔は、「餅屋は餅屋」とその仕上げの立派さを褒めて言ったものですが、こんなサービスをされては、「餅屋も餅屋だ」と言いたくなります。

    私たちはものに名前をつけることによって、整理され便利にもなりますが、反対に名付けることによって不自由にもなっているんです。たとえば、最近ホームセンターなどでも売られている「ぞうきん」が、家で台所の「ふきん」になることはまずありません。「ぞうきん」という名前によって、床を拭いたりする、いわゆる下用の利用に限定されるからです。逆に「ふきん」が下用に使われることはないでしょう。でもホームセンターに陳列されている「ふきん」も「ぞうきん」も、どちらもきれいな布です。だとしたら、ただの白布を買ってくれば「ふきん」にも「ぞうきん」にもなることができるのです。

    言い換えれば、名付けなければ自由で融通が利くということではないでしょうか。すべてに仏の精神が宿っていることを仏教では「悉有仏性(しつうぶっしょう)」といいます。餅の一部に名前をつけて、そのものしか価値がないように思わせるようなことがあってはならないと思うのです。手や足という価値をご自身でつけ、そう観念する方が自由でいいじゃないですか。

    私は、執着することやこだわることから心を解放することが苦を「ほどく」ことであり、「ほどく」から「ほとけ」が生まれたとも教えられました。法事において名前に縛られるようなことがあっては、本来の仏の教えに合わないように思うのです。

    合掌

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  • 田舎坊主の七転八倒<それほど形を整えても>
    2024/07/04
    仏事は荘厳(しょうごん)が大切です。荘厳というのはお飾りのことです。仏壇のお祀りの仕方などはよく聞かれることですが、なかでも多いのは、荘厳について置き場所などです。 本来、仏壇にはご本尊が安置されますが、荘厳はこのご本尊のためのものでもあります。真言宗の仏壇は、どちらかといえば質素で控えめなものが多くあまり派手ではありません。 仏壇本体の材質は紫檀や黒檀などが中心で、ケヤキや桜など多種に及びます。最近では圧縮材や合成材なども使われることも多く値段もかなりの差があるようです。仏壇のなかには上部に須弥壇(しゅみだん)というご本尊の置き場所があります。 ここには真言宗のご本尊大日如来を中心にして、向かって右に弘法大師、向かって左に不動明王が置かれます。これはそれぞれのお姿を描いた掛け軸だけの場合もあります。 須弥壇の前には幡(ばん)という布で作った幡(はた)や瓔珞(ようらく)とよばれる飾り金具や電球入りの灯籠などが仏壇の天井からつり下げられます。須弥壇の足下には高杯(こうはい:たかつきのこと)が左右一対置かれ、果物やお菓子などが供えられます。 下の段にいくと、お仏飯やお茶湯を置く台と五具足(ごぐそく:ローソク立て一対、花立て一対、香炉一つ)や三具足(みつぐそく:ローソク立て、花立て、香炉)という荘厳が置かれます。そのほかにも過去帳台や経机、おりんなどがあります。通常は下の段にいくまでの中段あたりに、仏壇の大きさによって違いますが一段から二段を利用して、ご先祖のお位牌が置かれています。ただこれはあくまでも便宜上置かせてもらっているだけで、正式な置き場所というわけではありません。 余談ですが、私がいつもこの話をすると仏壇屋さんから「それだけは言わないでください。売れ行きが悪くなるんです」と、釘を刺されてしまいます。 ちなみにこの田舎寺の檀家さんのなかには、かつては茅葺きの旧家があり、そのお宅のなかには今でも昔ながらの祀り方をしている家があります。現在では屋根は瓦葺きに代わったものの座敷などはそのままで、今も上座敷には一段高い上段の間があります。その上段の間には備え付けの仏壇があり、そこにご本尊を安置しているのです。 ご先祖のお位牌はどこにあるかというとご本尊を正面にして、下の間の右側に小さな位牌置き場の段があります。この旧家には数十体のお位牌があり、このお位牌たちはご本尊に向かうように少し斜めに置かれています。 これはとりもなおさず、私たちが亡くなって仏になるとはいいながら、決して弘法大師やましてや大日如来や不動明王になるわけではないからです。ですから、ご本尊と同じ場所に祀られることはあまりにももったいなく、失礼であるという意味から下の間の別の場所に祀られ、そこからご本尊を拝めるようにつくられたのです。 このように、本来仏壇はご本尊だけをお祀りするものだったのです。もともと祀られる場所がない仏壇のなかの位牌の置き場所について、先祖代々の位牌や新仏の位牌の場所はどこがいいのか、よく聞かれ、正直、困りものです。ですから私は「あまり決まりはないので、適当なところに置かれたらいいですよ。まあ新しいご先祖でしたら正面において丁寧にお祀りになったらどうですか」と、話すことにしています。 しかし、どこで聞いてくるのか、「夫婦や古い位牌や先祖代々などみな場所が決まっていて順番があるって言われた」と言いだし、そのどこかの人に言われたことをきっちり守って置き直している方もいます。 たしかに仏事に関して「わるい」と言われれば、そのことはしないようにするのはよくわかります。しかし「どうわるいのか」の理由がないのです。あるとすれば「ばちが当たる」ということでしょうか。 でもご自分のご先祖がその置き場所のことで、果たして家を守っている子孫にばちを当てるでしょうか。それよりも、ご命日には心込めて新しい花や故人の好物だったものを供え、しずかに般若心経をお唱えし、感謝の気持ちで手を合わせることのほうが大切だと思うのですが・・・。 ...
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  • 田舎坊主の七転八倒<坊主より詳しい?>
    2024/06/27
    仏事に関しては各宗派に違いがあります。 さらには同じ宗派でも地域によっても違いがあります。 これは仏事がそれぞれの地域の特色や歴代の住職の考え方などが大きく影響し、文化の一部として慣習化したものが少なくないからでしょう。 たとえば同じ宗派であっても、かつては土葬と火葬が共存していたため、それぞれの葬送の仕方を受け入れないところがありました。 土葬埋葬は亡きがらを捨てるようで、しかもその上に重い土をかけるのがかわいそうだといい、一方は火葬は熱そうだからいやだといいます。 また、葬式を済ませて中陰の間は仏壇を閉じるところと、開けたままにしておくところがあります。 当田舎寺では仏壇を閉めないようにお話ししています。 しかし親類縁者から閉めるようにいわれることが多いのか、この件についてはよく聞かれることでもあります。 仏壇は本来ご本尊を安置するものです。 ですからご本尊の安置されていない仏壇はあくまでもご先祖の位牌置き場ということになります。 もともと仏壇を家に置くようになったのは、ご先祖供養のためわざわざお寺へ行かなくてもいいように、いわばミニお寺を家の中に置く感覚で普及してきたと考えられます。 そのなかに方便としてご先祖の位牌を同居させているのが現在の仏壇のありようなのです。 その証拠に仏壇をよく見ると実際には位牌置き場というところはありません。 本尊を安置している須弥壇という高台に至る階段模様の段々上に位牌を置いているのが現状なのです。 あくまでも仏壇の主人はご本尊なのです。 特別に壇をしつらえお祀りされるのは、亡くなって間もないご先祖の魂が、名残なく迷うことなく黄泉の国へ旅立ってほしいと願い、大切なご本尊に手を合わせ、護られ、導かれたいと思うからであります。 にもかかわらず、ご本尊のいます仏壇が閉じられていたのでは、祈念が通じないのではないかと思うのです。 ですから私は中陰の間も仏壇を開けておくようにお話しします。 私の暮らす地域は二十数年前までは土葬が中心でした。 その後、多くの反対意見も出るなか、近くに火葬場もできたので、それからはすべて火葬に替わりました。 火葬の始まりは、2500年前、お釈迦さまはインド北部クシナガラで生涯を終え荼毘に付されたところからです。 火葬にされたお骨は世界七カ国に分骨され、それぞれガラス製の骨壺に納められ、それをお祀りする場所として仏舎利塔が建てられました。 これがストゥーパとよばれ、漢訳され現在の「卒塔婆」になったのです。 お骨になったということは、すべてが自然に還ったことであります。 すべてが自然に還った燃え残りとしてのお骨でさえ、あまりにも偉大なお釈迦さまのものであればこそ、貴重なガラスの器に入れ、これを礼拝する対象としたのです。 弘法大師ご入定のあと高野山を真言宗の根本霊場として完成させた真然大徳の御廟が修復された平成二年、、瑠璃色に焼かれた骨壺がそのまま掘り出されました。 このことは全国紙にもカラーで報道されました。 その骨壺はそのまま真然大徳の御遠忌で落慶された御廟に再び納められました。 このようにこういった方々の骨壺はとても大切に扱われるものであることは言うまでもありません。 しかし庶民の埋葬意識は少し違っていて、火葬してからもお骨を土に還すという観念で納骨される方がたくさんおられます。 埋葬文化は「土に還る」を第一義とされていますので、骨壺に入ったままでは土に還れず成仏できないと思うのでしょう。そういう方々は骨壺を割りお骨を直接土にまく必要があると考えているのです。 あるお宅の納骨供養の際、その親戚の長老らしき方が采配しだしました。 「おい、骨壺からお骨を出して、その穴へ撒いて・・・」 「壺を細かく割って、深いところに埋めて・・・」  私が口を挟むまもなく納骨は進んでいきました。 「そのまえに、写経した用紙はあるか?」 「それはお骨の下に敷くんや」 「よっしゃあ、それでええわ」 写経用紙の取り扱いまで指導したところで、 「次は土をかけるんや、一鍬ずつでええで」 と、参列者を順番...
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  • 田舎坊主の七転八倒<法事のご本尊は?>
    2024/06/20

    法事とは亡き人のご供養をすることです。

    葬式のあと初七日から満中陰までの七回と、百日忌、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、三十七回忌、五十回忌とあります。

    すべてを勤めるとして五十回忌まで20回の法事をすることになります(二十五回忌、四十三回忌、四十七回忌を加えて23回とするところもあります)。

    明治初めころまで庶民は字が読めずお経をあげることができなかったため、その都度、お寺の本堂で僧侶にお経をあげてもらっていました。追善供養したいという風習により、やがて各家に仏壇が祀られるようになって自宅で法事をするようになったのでしょう。

    仏壇の前で法事を勤めることもありますが、この辺りの田舎ではほとんど仏壇から位牌を取り出します。そして床の間にあらたに座敷机などで祭壇をもうけて法事をします。

    祭壇の上には正面に位牌を置き、花瓶、線香立て、花立て、ロウソク立てなどを並べます。果物やお菓子、季節の花や故人の好物だった品々もたくさん供えられます。

    法事とは本来、亡くなって自らお経をあげることができなくなったご先祖さまに代わって僧侶を招き、遺族とともに、本尊にお経をあげ功徳を積むことなのです。

    「追善」という言葉も、「善き功徳の追加」であって、法事同様、亡くなって功徳を積むことができなくなったご先祖に代わり、親類縁者が一堂に会して、最も功徳があるとされる読経をご本尊にお供えすることなのです。

    ですから、一番大事なことは仏壇の中の本尊やまたは本尊に代わる掛け軸を、祭壇の正面の奥に安置することなのです。

    当寺の法事では仏前勤行次第の冊子を渡し、一緒に経をお唱えするようにすすめますが、参加者が声をそろえてお唱えしてくれたときなどは、

    「今日のご先祖さまが皆さんの後ろの末席にいて『みんなで拝んでくれてありがとう。わたしの代わりに拝んでくれてありがとう』と、お礼を言ってると思いますよ」と、私は話します。

    要するに、あくまでもメインは当家のご本尊なのです。

    しかしほとんどの家では位牌がメインのように中心、正面に置かれています。ご本尊は二の次のようになってしまっているのです。その上、床の間の置物がそのまま置かれていて、本尊代わりのようになっていることも多いのです。

    その置物が、あるときは鷹の剥製だったり、鮭をくわえた熊だったり、あるときは徳利をもったタヌキがヘソを出して立っていたりすることもありました。

    私は同じタヌキでも、楊子(ようじ)をくわえた紋次郎タヌキ(昭和47年からテレビ放映された「木枯らし紋次郎」を真似た置物)にもお経をあげたこともあります。

    合掌

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  • 田舎坊主の七転八倒<後ろがうるさい>
    2024/06/13

    法事に必要な時間は約1時間です。

    その内訳はおおよそ読経が25分から30分、法話が10分、そのあとお墓参りをして終了となります。

    読経の最後には、般若心経や諸真言など法事に来られる年齢の方々なら比較的なじんでおられるお経を中心に「仏前勤行次第」という手づくりの小冊子を配って、みんなでお唱えします。

    こんな方法にしたのは、昭和52年ころ法事にお参りして読経をしているときのことがきっかけでした。

    当時は、法事に招かれる親類縁者のほとんどがミカン農家でした。

    その人たちがそれぞれ農作業の進み具合や消毒、摘果、実のなり具合などを、法事最中、小声ではあるのですが真剣に話し出して、うるさいのです。

    坊主の後ろに座ってただ訳の分からないお経を聞いているのが、ある意味苦痛だったのでしょう。

    あるいは小坊主に遠慮は無用でお経の最中であろうとそれほど失礼とは思われなかったのだと思います。

    私が至らないことも大きな原因ですが、とにかくうるさいのです。

    そこでお経の最中の口封じのため考えたのが、昔ですから、鉄筆を使ったガリ版印刷で「仏前勤行次第」をつくり、みんなで一緒にお唱えすることだったのです。

    お経の後半で「ご一緒にお唱えください」と声かけをし、参列者全員で読経唱和を始めたところ、まずまず評判よく受け入れられました。しかも案外効果は早く出てきて、それ以来、読経中の会話は全くといっていいほどなくなりました。

    ところが困ったことも起きてきました。それは「仏前勤行次第」の冊子をほしいという人が増えてきたのです。

    しかしなんといっても当時はコピー機もワープロもましてやパソコンもありません。鉄筆で油紙に手書きし、インクを染みこませたロールを一回一回、押し転がしながら刷り上げ、一冊ずつ製本するのですから、増刷が大変なことはいうまでもありません。

    当初はお断りをし、お貸しするだけにしていたのですが、なぜか法事のたびに冊数が減っていくのです。

    そうです。内緒で持って帰られるのです。

    そこで思いついたのが冊子ではなくB4用紙一枚に「仏前勤行次第」すべてを書き込んだものをつくり、ほしい方にはそちらを差し上げることにしたのです。

    しかしそれでも、

    「冊子本の方が字が大きいから見やすいので、それがほしい」と、いいだす人もありました。

    そんなこともあったので、さらに思い切って、約400部つくって檀家皆さまに一冊ずつ差し上げることにしたのです。

    私は法事の時、よく言うことがあります。

    それは「寺から里へ」ということです。

    かつては、農家でとれた野菜やミカンなどをお寺へもっていくのはごく普通のことで当たり前のような行為でした。ですから「里から寺へ」は当たり前のことと言えます。

    反対に、お寺のお供え物やいただきものなどを檀家さんに配るようなことはまずありません。

    ですから「寺から里へ」という言葉は「めったにない」という意味をもっています。

    しかしこの田舎寺では「仏前勤行次第」を無料で差し上げます。

    「寺から里へを実践する、めったにないお寺なんですよ」と、もったいぶって差し上げるんです。

    合掌

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  • 田舎坊主の七転八倒<飲みすぎました>
    2024/06/06
    法事などで僧侶に出す食事のことを「斎(とき)」といいます。 平成に変わるまでは、本膳・二の膳が一般的で三の膳がつくところもありました。 このうち三の膳は家で待ってる家族のためのものと聞いたことがありますが、現在ではもっぱら幕の内が主流となっています。 お釈迦さまの時代から僧侶に食事を提供することはとても大きな功徳があるとされてきました。 「斎」について、お盆の行事が始まりとされます。 古来インドでは、4月15日から7月15日の雨期の間、僧侶は外出を禁じられ、合同で室内で修行する安居(あんご)という期間がありました。 その安居が明ければ「僧侶たちに斎を施し、供養しなさい」とすすめられたことが斎を施すはじまりであり、お盆の起源となったとあります。 * また、こんな逸話があります。 お釈迦さまの弟子であるモッガラーナ(目連)が、餓鬼道というつらい地獄の一つに落ちた母を救うため、その方法をお釈迦さまに聞きました。そもそも、モッガラーナ(目連)の母が餓鬼道に落ちた理由は、他を愛することがなかったからです。 子どもであるモッガラーナ(目連)はなによりも大切に、あふれるほどの愛情をもって育ててきたけれど、母は他の子どもや人には目もくれず、それらを大切にし愛する心がなかったため、餓鬼道に落ちたのです。 そのため、他を思う心を持つ実践として、人々の幸せや平安を願う修行をしている僧侶たちに食事を提供することがとても大切なことだとモッガラーナ(目連)はお釈迦さまに諭されたのです。 そしてこのことがお盆の行事である「お施餓鬼」として、自分の先祖や縁故だけをお祀りするのではなく「三界萬霊抜苦与楽」と書かれた、自分と縁のない仏さまにも水を手向けるお盆の習慣ができたのでしょう。 * また、お寺の護寺運営の費用としてほとんどの寺院が檀家さんから「斎米(ときまい)」と称する志納金をいただいています。 昔は春と秋に麦や米などでお寺に納められていましたが、今ではほとんどお金で納められます。 お寺の護持運営といいながら、かつては専業坊主では食べていけなかったため、これが基本給みたいなもので、坊主の食いぶちだったようです。 ちなみに私の田舎寺では現在、年間2500円の斎米料をいただいていますが、光熱費や本堂のお供え物、修繕費などまさに護寺管理費に消えてしまいます。いじましい話しですが、当時の斎米料は1000円だったため、法事での斎には助けられたものです。 * 今ではこの田舎でも専業農家は少なくなり、法事に集まる人は勤め人が多く、法事も土・日曜日や休日で、平日に法事をおこなう家はほとんどありません。そのため休日に法事が重なり、どうしても食事に同席することができなくなり、お布施とは別にお膳料を包んでくれる家が多くなりました。 アメリカ向けのミカン栽培が最盛期だった昭和五十年ころは、農家は専業で勤め人も少なく、檀家のほとんどが農家の人たちで、休日平日を問わず法事をしてくれたので必ずと言っていいほど法事のあとの食事、斎をいただくことが多かったのです。 * そんなある日の法事でいつものとおり上座に座り、当家の親戚の人たちと杯を交わしているうち、 「なかなか若はんは、いける口やなあ。やっぱり親院家はんの子やなあ」などとおだてられ、若気の至りとでもいうべきか、へべれけに酔ってしまいました。あげくのはてには、当家の方3人ぐらいで寺まで送ってもらわなければならないほど酔ってしまったのです。 寺に帰ってきて、驚いたのは母親です。送ってくれた人に「申し訳ございません」と平身低頭するとともに、酔ってただただ笑い続けている私を裏の井戸の前に引きずっていき、裸にさせたうえ何杯もの水をぶっかけました。 それでも笑い続ける私に、「法事で酔っぱらうにもほどがある!」と、かなしかなり怒っていたのを覚えています。もちろん覚えているのは水をかけられてから後のことです。 こんどは母を怒らせてしまいました。 私が母に怒られたのは、人生でこのとき一度だけでした。 このことがあってから毎年、大晦日の除夜の鐘が鳴...
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  • 田舎坊主の七転八倒<塔婆が逆>
    2024/05/30

    法事には塔婆がつきものです。塔婆、正式には卒塔婆です。


    当地ではこの塔婆、亡くなられた方の戒名を書いたものと、施主当家の先祖代々の菩提供養を書いたものの二本が基本的なもので、法事のご先祖が複数霊あればそのぶん塔婆の本数が増えることになります。

    塔婆はおうちで読経を済ませたあとみんなで墓参りの際に持参し、墓石の後ろか塔婆立てにさし、故人の供養をするものです。


    現在ではこの塔婆、お寺が用意し、法事の依頼があれば前もって書いておいて法事当日に持参するのですが、私が小坊主の頃は、田舎といえども小さな雑貨店があって、そこで当家が必要な本数の塔婆を買い求め、床の間にしつらえられた祭壇の横に墨汁の入った硯とともにその当家が準備していました。

    来客が正座し、その衆人環視のなか、法事が始まる前、おもむろに幅7センチ長さ90センチの塔婆を左手で持ち、右手に墨を含ませた筆を持ってサラサラ、サラと格好良く梵字から始まって戒名を書くのですが・・・。

    そんなふうにうまくいけばいいのですが、そもそも世間一般には「坊主は字が上手」と間違った(?)常識が流布しているなかで、愚僧は字が汚いことこの上なく、苦手なのです。

    しかも法事にひとりでいきはじめてまもなくの頃です。法事のお客さま全員の目が一点筆先に集中するのですから、緊張するのなんのって・・・・。

    しかし、ここで逃げることもできないため、取りあえず、祭壇の位牌を見ながらやっとのことで2本の塔婆を書き終えました。

    ところが、どうも塔婆の姿がおかしいのです。

    立てて祭壇に並べてみると・・・・上下逆なのです。


    昭和48年ごろの塔婆は現在のように梵字の部分が五輪塔のような切り込みがなく、上部が緩やかな三角に面取りされ、足下は土中に差し込むために鋭く矢先のように切り込まれています。

    それでも本来なら間違うことはないのですが、あまりの緊張にそのときは足もと部分から梵字を書きはじめてしまったようです。

    祭壇に立ててすぐ気づいたので、

    「申し訳ないです。塔婆を天地逆に書いてしまいました」と話したところ、

    「いやあ、べつに分からへんからいいですよ」と、はっきり上下逆と分かるにもかかわらず、施主さんはいやな顔一つせず優しく了解してくれました。

     

    何十年も前の昔のことなのに、そのときのことは今でもはっきり記憶に残っています。

    そしてそのとき、人の間違いを、あるときには優しく受け入れ、包み込むことの大切さを学んだように思いますが、いまだに私自身実行できているか大いに疑問に思うこの頃であります。

    合掌

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  • 田舎坊主の七転八倒<天井がまるでお肉>
    2024/05/23

    檀家さんにとって私のような小坊主でも、寺の跡継ぎができた安心感やもの珍しさもあり、法事も新鮮な感じがするとかで、案外歓迎されているように思います。

    しかし法事の後、「斎(とき)」とよばれる食事の席につきますが、食事をいただいていて皆さんだんだんお酒が回ってると、法衣を着て上座に座っている坊主であっても、参列者から

    「今の若いもんは・・・」という話になることがたびたびあります。

    昭和50年ごろ、法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりで、小学校の校庭にまでサツマイモを植えてそれを主食とした世代です。

    しかしイモだけでは足らずイモの蔓まで食料にしたという飢えた時代を体験した人の、食べ物に限らず、なによりも物の大切さを話す言葉には大きな説得力がありました。

    それに比べて、私は高野山の宿坊で小坊主時代を過ごし、ご馳走と呼べるものは食べられていなかったとはいえ、白いご飯だけはタップリあったし、おかずはなくても空腹になることはありませんでした。

    ですからほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがないのです。

    そんな私がひもじく辛い時代を生きてきた人たちよりも上座に座り、法衣を着て法事を勤めるためには、せめてほんとうの空腹感を経験する必要があると思い始めました。

    そこで断食です。

    私がお世話になった断食道場には、多くの人が内臓の調子を整えるために来られていました。

    そこでは最長の断食期間が一ヶ月で、そのうち本断食とよばれる絶食期間は一週間と決まっています。

    しかし私はこれを修行と思い、どんなことが起こっても自分が責任をとるということで、無理にお願いして本断食を二週間にさせてもらうことになりました。

    これで、はじめの一週間が減食期間、次の二週間が本断食、残りの一週間が復食期間と決まりました。

    本断食中には夜、布団に入ると空腹にさいなまれ、部屋の天然木の天井板がまるでお肉が並んでいるように見えるといった妄想にかられました。

    ようやく本断食が終わり、減食開始から22日目に復食が始まりました。久しぶりに食べものを口にすることができる日が来たのです。

    食べものといっても一日二杯のおも湯です。

    ところが、このただのお粥の汁のようなおも湯が、なんと美味しいこと!美味しいこと!

    涙が出るほど、おいしいのです。

    このときに思いました。

    おなかが空っぽだったからこそ、おも湯に豊かで深い味わいを感じることができたのだと。

    そして足らないことを経験してみないと、豊かなものを感じることができないのだと、そのときつくづく思い知らされました。

    この断食を終えて家に帰ったとき、一ヶ月で10キロ近くやせた私を迎えてくれた母が、「痩せてかわいそうに」と、号泣するのです。

    はじめて母を泣かせてしまいました。

    思い出の断食道場は先日の火事で焼け落ちてしまいました。

    合掌

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